主日の福音 1998,08,02
年間第十八主日(Lk 12:13-21) 
「愚かな者よ、今夜、おまえの命は取り上げられる。おまえが用意したものは、いったいだれのものになるのか」。今日の福音の中で、私はこの箇所を取り上げてみたいと思います。

神様が、「愚か者」として判を押した人は、この世の物差しでは、豊かに満たされた人です。この世の知恵を生かして、手に入れたものを賢く管理しようとします。けれども、神様の目には愚かにしか映りません。どこかがずれているのですが、いったいどこがよくなかったのでしょうか。

この金持ちは、目の前にある富を、まるで自分の力だけで蓄えたかのように喜んでいます。「私の力で手に入れたのだから、誰もそれを奪い取ることはできない」そう思い込んでいるのです。しかし神は、この金持ちからすべてを取り上げようとします。そうです。神は、この世のすべてのものを取り上げる力と権限を持っているのです。

すべてに権限を持っているのが自分でなくて神であるとしたら、私たちは神に一目置く必要があります。神に感謝を捧げるということです。今の私があるのは、神のおかげであるということを、はっきり知ることです。

それでは、自分で手に入れたものは、結局自分のものにならないのでしょうか。そうではありません。すべてが、神の祝福の中にあるとき、すべてがあなたのものになるのです。

神は、取り上げたり、奪い取ったりすることを本業としているわけではありません。むしろ、祝福し、さらに豊かに与えることが神の本来の姿です。私たちがそれを知ってさえいれば、安心して暮らすことができます。

小さな知恵でいいのです。私が手に入れた収入があります。今置かれている地位があります。平和な暮らしや、生活のゆとり、こういったものの中から、神に感謝を捧げる工夫を入れればよいのです。そうすれば、その人は手に入れたものを神の手の中に置く賢い人ですから、何一つ失うことはありません。

もっと具体的に言いましょう。収入は、手に入れただけでは聖書の中の金持ちと何ら変わりません。その中から、神に感謝を捧げるいくらかをお捧げすることです。そうすれば、あなたが得た収入すべてが、神の祝福の中に置かれ、安心して暮らすことができます。

平和な今の暮らしの中で、神に感謝を捧げる時間をとりましょう。一日のうちの朝晩少しの時間、週に一度、日曜日に教会に赴くことで、暮らしのすべてが神の祝福の中に置かれます。こうした、神の祝福の中にすべてを置く知恵が、手に入れたすべてを失わない確かな方法なのです。

もし、私たちがこうした知恵を欠くなら、どういったことになるでしょう。「これは私のものだから、どんなにわずかであっても神のために手放すのはもったいない」もしこんなことを考えるなら、捧げるべきものを惜しんだことで、すべてが神の祝福の外に置かれてしまうのです。これでは、取り上げられても致し方ないというものです。神はすべてを取り上げたあと、こう言って説明するでしょう。「お前は自分の持ち物をわたしの手の中に置かなかった。それでせっかく手に入れたものもお前の持ち物にならず、こうして取り上げられるのだ」と。

同じように、朝晩の祈りを惜しんでいる人は、一日を神の祝福の外に置くことになります。こうして、すべてを惜しみ、すべてを失うのです。何と愚かなことでしょう。朝晩の十分を惜しんだために、二十四時間を失ってしまうのです。

わたしたちには、神から授かったすばらしい知恵があります。その知恵を使う自由も与えられたとあります。ですから、今日の福音の招きを受けて、私たちがどんな態度を選ぶのか、自分で決めなければなりません。自由に決めて良いのですが、あとのことは自分に責任があります。

あなたは神の祝福のうちに自分の得た物を置きますか。それとも、ささげものを惜しんで、すべてを失いますか。自由に選んで良いと言いながらも、これはけっこうに責任重大です。どちらを選ぶか、今日この聖堂を一歩出たときから、一人ひとりに委ねられているのです。