主日の福音 1998,07,29
年間第十七主日(Lk 11:1-13) 
今日の福音を読みながら、「夏休み最初の日曜日だなぁ」と思っていたら、神学生時代の生々しい体験を思い出しました。中学一年生の時の話です。

見ず知らずの長崎で一学期を過ごし、始めて里帰りした私は、まぁ、いちおう真面目に毎日ミサに行っていたわけですが、最初にやってきた日曜日のミサで、思いがけない話を地元のおじさんたちがしているところに出くわしました。

「輝あんちの息子の、神学校に行ったとっちよ」
「ほんなごてや」「ほんとさ」
「なんのそん。輝あんちの息子の神父様にならうっとっちかよ」

五島弁で、大変申し訳ないのですが、あの父親の息子が、神父様になれるはずがない。教会の玄関先で、そういう会話をしていたのです。私は、恥ずかしいのと、頭に来たのと両方で、そのおじさんたちの横をうつむいたまま通り過ぎ、お御堂に入っていきました。

わたしも、同級生代表で選ばれて「都」に行っていますから、「ようし、見とれよ。絶対に見返してやるぞ」そう思ったものでした。

ここでぱっと、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と結びついた人は、なかなか勘が鋭いと思います。「なるほど、それで神父様になりたいと神様に求めたら、神父様になれたんだなぁ」というような繋がりです。

でもこれで終わったら、あんまり当たり前すぎて面白くありません。じつはこの話、もっとずっと奥が深いんです。

結局、あのときのおじさんたちの正直なやりとりは、司祭になるまで忘れることはなかったのですが、高校を卒業して大神学生になった頃に、自分がどんな父親の息子か、思い知らされることになりました。

大神学生にもなると、夏休みの子供の黙想などを手伝ったり、任せてもらったりするのですが、巡回の黙想会の感謝のミサ後に、「神学生さんは、お父さんは誰っちゅうとですか」と言われまして、何の気なしに、「輝明です」と答えたら、みんないっせいに、「へぇ!輝明さんですか?あの人は悪かったもんねぇ」と口々に言い出したんです。これにはびっくりしました。


聞けば、本教会のガキ大将に、輝明と正一と明という三人がいて、この三人がそのあたりに見えないと、どこで悪さをしているか、心配でたまらなかったのだと言うんです。「輝明さんはバラかった」これが、巡回教会でのもっぱらの父の噂だったようです。

地元の本教会でそんな話を聞くならまだしも、巡回先の教会でこんな話を聞けば、いったいどんな親だったのか、自分でも気になってきます。それで「へぇ!」とか言いながら、それとなく話を聞いてみると、あるわあるわ、これでは初対面の人に「あなたのお父さんはバラかった」と言われても致し方ない、そんな気になったものです。

このへんで、「何のそん、輝あんちの息子のならうっとっちかよ」という言葉が、本当に重く感じられるようになりました。あー、あのときおじさんたちは十分根拠があってあんなことを言ったんだなぁ、ちらっとそう思うこともあったのですが、ここから私にとっての本当の勝負が始まったのかもしれません。

まだここでは勝負はついていないのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。イエスさまのこの言葉は、現実を突きつけられ、すべてが明らかになってから、ますますその輝きを増してくるのです。

「絶対あのときのおじさんたちを見返してやるぞ」。そう思って、最初は司祭になりたいと求めました。けれども、そうして求め続けて与えられたのは、あまり聞きたくない父親の思い出でした。ここで勝負を諦めてはいけないのです。求め続けるのです。パンを三つ貸してくれと頼んだ友人は、しつように頼みました。求めて、最初は期待外れの答えをもらいましたが、それでも根気強く求め続けたのです。そして、期待以上の物を受け取って帰ります。

神学生になって最初の夏休みの出来事は、本当に小さなことでしたが、求め続けることで、いろんな現実が見えてきたのです。「蛙の子は蛙」そう考えると、とても私など司祭になれるはずもなかったのです。それでも、辛抱して求めた結果、期待以上の物をいただいたわけです。今、この目で見ているすべてが、期待以上の物でなくて何でしょうか。

生活を変えたい、素直に神様の前に自分の心を開きたい。でも、どれだけ努力しても変わらなかったし、どうせ自分はこんなもんなんだ。そう言って、求めることを止めてしまっている人がいないでしょうか。イエス様が仰った「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」というみ言葉は、今日も明日も、あさっても意味を失わないのです。

じつはこの日のお説教は、月に一回佐世保の大野教会で開かれる手話のミサの中でも話すのですが、手話の通訳者を通して聾唖者に伝えることになりますので、「何のそん」とか「ほんなごてや」などの五島弁がどのあたりまで伝わるか、ちょっぴり心配しています。神の恵みで、うまく内容が伝わりますように、明日の晩6時に大野教会で行う手話ミサの成功のためにも、思い出したらお祈りしてください。