主日の福音 1998,07,12
年間第十五主日(Lk 10:25-37) 
今日朗読されたのは、皆さんよくご存知の「良いサマリア人」のたとえです。最初は、登場人物一人ひとりの置かれている立場をしっかり押さえていきましょう。その上で、自分を律法の専門家の立場に置き換えて、生活に生かすヒントを見つけることにいたしましょう。

今日の場面に、実際に登場しているのは、律法の専門家とイエス様だけです。エリコに旅をしている人、祭司と言われる人やレビ人、サマリア人さえも、たとえの中で登場する仮の人物です。ですから、律法の専門家とイエス様が、真っ正面に向き合ってそこにいるということを確かめてほしいと思います。

律法の専門家は、生活と信仰の結びつきを真剣に考えていました。信仰は生活の飾りではなく、生きているからには永遠の生命を得たい、救われなければ意味がないと知っていたのです。そして聖書にその答えがちゃんと書いてあることも、当然知っていました。

「正しい答えだ。それを実行しなさい」と、イエス様は答えます。分かっているなら、その通りにすればよいと、イエス様は彼を突っぱねるのですが、これは、よく考えると、「あなたは、分かっているようで、本当は分かっていないのではないか」と言っているのです。

確かに、律法の専門家は分かっていませんでした。正しい答えなのに、ちゃんと実行できていませんでした。実生活でいくらでも活かしていける信仰の教えを持っていたのに、生活に結びついていませんでした。けれども、「そうです。私は分かっているようで、本当は分かっていないのです」とは言えませんでした。置かれている立場、律法の専門家という身分が、自分を縛っていたのです。それで、「私の隣人とは誰ですか」と問い直すことになったのです。

イエス様が話したたとえには、仮の人たちが登場するのですが、律法の専門家はどのように受け取ったのでしょうか。彼はきっと、自分の生活の中で出会う実際の人々を思い描いていたと思います。

半殺しの目にあった人は、見ず知らずの人ではありますが、今すぐに助けの必要な人です。祭司とレビ人は、いわば同業者です。そしてサマリア人は、自分たちと対立している人です。ここに登場する人たちは、実際に律法の専門家が、今の生活の中で出会う人たちなのです。

生きて、この人生を全うして、救われたいと思っています。そうしたあこがれを持って日々の生活を送る中で、今すぐに手助けが必要な人に出会います。けれども、何かしらの理由を付けて、その人を脇へ追いやってしまうのです。

また、自分と同じ同業者も生きていますが、彼らは半死半生の人を見捨てていきます。「同業者の風上にも置けない」と憤慨しても、実際そのような人がごろごろしているのです。最後に、自分がいちばん嫌っている人、憎んでいる人もいます。あんな人には世話になりたくないとうそぶいていますが、実際にはその人に世話にならなければならなかったりするのです。

律法の専門家は、イエス様のたとえ話が、ただのたとえには聞こえなかったと思います。「どこかにあるような話」ではなくて、今ここに、自分の生活の中に同じことが起こっていると感じたことでしょう。「私だったら、あんなことはしない」とか、「同じ信者のくせしとって、何やあいつは」とか、頭の中ではたいそうなことを言いますが、思うほど体は動かないのです。

イエス様は、律法学者の心の変化を十分につかんでいました。あの人とは関わりたくない、あんな人にはなりたくない、でも思うほど実行できていない。心の中で戦っている彼に、手をさしのべました。「行って、あなたも同じようにしなさい」。

たとえ話は、それを丹念にたどっていくと、どこか別の場所で起こったことではなく、自分の身の回りにある生活そのものであることがしばしばです。実はイエス様は、律法の専門家と一対一で向き合って話したように、今日、私たちと向き合って話したいのです。「あなたには他人事のように聞こえるか、それとも自分自身のことに思えるか。もし自分の今の生活にぴたり当てはまるなら、ちっと考えてくれないか」。

私たちにも、イエス様は必ず手をさしのべてくださいます。自分はあの人とは違うとか、あんなことをしながら、よくまあ涼しい顔でいられるなとか、かなりのことを言いますが、言うほど実行できていないのです。正直に、自分の不足を認めるなら、イエス様は手をさしのべてくださいます。「行って、あなたも同じようにしなさい」。

それが具体的に何をさすのかは、一人ひとり違ってきます。けれども、人をえり好みしたり、どこかで比べたりする自分ときっぱり別れるためには、何かをし始めなければならないのです。

イエス様は律法学者に、「自分が分かっていないことを正直に認めなさい」とまでは要求しませんでした。私たちにも、自分は弱い人間だとか、つまらないものですとか、そこまで言わせるつもりはないと思います。ただ、今までの自分に満足しないなら、何でもいいから、動き出しなさいと進めるのです。

失敗を恐れることなく、勇気を出して行動しましょう。一歩を踏み出せば、あとはイエス様がついていてくださいます。