主日の福音 1998,07,05
年間第十四主日(Lk 10:1-9) 
今日の福音でイエス様は、十二人の使徒のほかに七十二人を任命して、すべての町や村にお遣わしになります。そこで私たちも、七十二人の弟子とは、いったい誰のことを言っているのか、しばらく黙想してみることにいたしましょう。

おそらく、この七十二という数字は、旧約聖書の象徴的な数字、七十に倣ったものだと思われます。旧約聖書で、七十という数字は、全体を言い表すときに遣われて、七十人と言えば、それですべての人、すべての代表者という意味合いを持っていました。そこで、もともとの意味として、弟子と認められた人の全体を表しているということが分かります。

この七十二人が遣わされる場所は、イエス様がご自分で行かれる予定のすべての町や村となっています。「すべての町や村」というところに強調点があります。従って、七十二人は、広い意味で、イエス様に先立って町や村に遣わされるすべての人の意味でもあります。

ところで、イエス様は、すべての人に神の国を知らせ、神の教えに従って歩む人が増えることを望んでおられます。そのためには、すべての場所と環境に、これと思われる人を派遣しなければなりません。共に生活する人に神様のことを知らせ、神様の教えを守って生きる姿を示す人が必要なのです。

このように考えるときに、七十二人というのは、ある決められた人数を指しているのではなくて、イエス様と関わって生きているすべての人、私たち一人ひとりをも含んでいることに気がつくと思います。私たち一人ひとりは、イエス様から何かの手紙を託されていて、それを自分の置かれた場所、置かれた環境で読み上げるよう、期待されているのです。

イエス様に預けられた手紙は、何も難しいことばかりを書かれているというわけではありません。福音を例に取ると、病人を癒すことはできないにしても、そのほかのことは誰にでもできることです。「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願う・祈ること」、「この家に平和があるように」と言うこと、「神の国はあなたがたに近づいた」と言うこと、これくらいのものなのです。

遣わされる弟子は、働き手を送ってくださるように祈る必要があります。なぜでしょうか。思うにそれは、収穫する人が、私でないこともあり得るからだと思います。収穫に携わるのは、私かもしれません。他の人かもしれません。神様が受け取るはずの実りですから、収穫するのは自分だと、我を張っても仕方のないことです。私がその人であれば、私が収穫しまっす。けれども、神様は違う人を考えておられるかもしれません。そういうわけで、収穫のための働き手を送ってくださるように祈る必要があるというのでしょう。

「この国に平和があるように」「神の国はあなたがたに近づいた」。どちらも、相手のことを中心に考えて作られたメッセージです。平和は、神が与えますし、神の国は本当に近づいているわけですから、事実をそのまま言うのは造作もありません。要するに、すぐにでも実行できることばかりなのです。従って、私たちもイエスさまの七十何番目かの弟子になることができるのです。

イエス様は、弟子たちを派遣するに当たって、次のようなことで注意を呼び覚ましました。「行きなさい。わたしはあなたがたを使わす。それは、狼の群れに子羊を送り込むようなものだ」(v.3)。現代社会にあって、私たちを餌食にしようとしている狼の群れとは、世俗化と、無関心の波です。たとえば、ちょっと用事ができてミサに行けなくなると、「これくらいいいじゃないか。だれだってこんなときは休んでるさ」そう言って判断の基準がいつの間にか世俗という物差しになってしまいます。「別にわたし一人くらいいなくても問題ない」。無関心も人の物差しを狂わせ、狼の餌食に易々となってしまうのです。

むしろ私たちは、イエス様に委ねられた一つ二つの使命を忠実に果たすことで、自分の置かれた場所、環境で世俗化と無関心という狼に対抗いたしましょう。人間の力だけに頼っては、狼の圧倒的な数に負けるかもしれません。私たちは使命を果たすために、財布や袋や履き物といった、自分の持ち物、この世的な物に信頼せず、神の助け、支えに絶対の信頼を置きましょう。その時わたしは、イエスの七十何番目かの弟子として、立派に使命を果たせるのではないでしょうか。必要な恵みを、ミサの中で祈ってまいりましょう。