主日の福音 1998,06,28
年間第十三主日(Lk 9:51-62) 
今日私たちは、ルカ福音書の大きな転回点である、エルサレムへの旅の始まりの場面を読みました。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」。このときから、イエス様の行動は、すべてエルサレムで起こる出来事、すなわち死と復活の神秘に向けて準備されていきます。

そこで今日は、「エルサレムに向けて旅をするイエス様」を黙想することと、このイエス様に付き従うための私たちの覚悟について考えてみたいと思います。

ルカは、福音書の中でイエス様を描くにあたって、「エルサレムに向かって旅をするイエス様」をいつも意識して登場させます。それは当てのない旅ではなく、ちゃんとした目的、目指す場所があり、イエス様といっしょに旅をするなら、私たちも、人間らしく生きることの意味を見いだす、すばらしい旅なのです。

旅行の経験があれば、次のようなことに思い当たるかと思います。身支度はできるだけ少なくしよう、旅の途中ではあまり長居したり、無駄な出費をしないようにしよう、などのことです。どれも、目的地にたどり着き、自分の目標を達成するためです。

今日の福音は、ちょうどこのことを教え諭してくれます。イエス様の一行は、エルサレムに行く途中でサマリアという町を通られるのですが、町の人たちはあまり歓迎していません。たまらず弟子たちは、町の人たちに制裁を加えることを進言しますが、イエス様はそれに応じません。イエス様にとって、途中で起こる出来事は、通り過ぎていく出来事であって、こだわりがないのです。

イエス様はこの点を、さらにはっきりと弟子たちに示そうとします。一行に加わりたいという人々が、さまざまに声をかけてイエス様について行くことを申し出たとき、「エルサレムへの旅」すなわち「救い主をイエスと信じ、ついて行く旅」を何よりも優先できる者だけに、ついてくることができると言い渡したのです。

「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。その場しのぎの安心を得たいと思って私についてきても、得ることはないでしょう。むしろ、救いを勝ち取るために、その場その場の安心にこだわってはならないのです。

「まず、父を葬りに行かせてください」。当時の律法によれば、父の弔いに出かけることは何よりも大切なことでした。社会の掟で何よりも尊い務めを引き合いに出されようと、イエスに従うことがすべてに優先されるのです。最重要課題なのです。

「家族にいとまごいに行かせてください」。この求めにさえ、「後ろを振り向くな」と答えます。ここまでくると、イエス様は何か人間の常識に反する、冷酷な人のようですが、本当にそうなのでしょうか。

実際は、イエス様ほど人間味溢れる方はおられないのですが、私たちがイエス様を見誤ってしまうのは、イエス様の勧めを、私たちの必要と同じ土俵に置こうとすることに原因があります。むしろ、イエス様の勧めは、まったく畑が違うのであって、本当に言いたいことは、神の国を目指して生きる喜びを知ったなら、その方向は決して失ってはならない、そういうことなのです。

何か具体例がないかなぁ、と考えていたら、お寺のお坊さんの托鉢に思い当たりました。私はまだ一度もお坊さんの托鉢に出会ったためしがないのですが、聞くところによると、長崎の浜の町あたりでは、托鉢修行をしているお坊さんと出会うことがあるのだそうです。

私は始めて知ったのですが、托鉢の途中でおささげしてくださる方がいると、持っている入れ物に入れてもらい、決して頭を下げたり、お礼を言ったりはしないのだそうです。もちろんその場でお経を唱えたりはするのですが、頭を下げているのは、むしろ喜捨をした本人だというからたいしたものです。

托鉢も修行です。修行中ですから、お坊さんはきっとその日その日のおささげに執着がないと言うことなのでしょう。お礼も言わないというのも分かる気がします。そして、ささげる人たちも分かっていて、むしろ自分の方から頭を下げているわけです。

この話、私たちにも当てはめて考える必要があるかもしれません。私たちは生まれたときから神様に命を与えられ、天国に向かって旅をしている者です。それが本当の意味での人間だとしたら、人間らしく生きるためには、神に生かされていることを一日たりとも忘れてはならないでしょう。神に守られているという信仰は、私たち人間にとって二の次ではなく、最重要なのです。

人間らしく生きるとは、神に生かされているという信仰を最優先に生きることです。徹底して人間らしく生きなさいと、イエス様は呼びかけてきます。救いという、最終の目的地をはっきりと見定め、キリスト中心に生活を整えるようにいたしましょう。そのための恵みを、今日のミサの中で祈り求めましょう。