主日の福音 1998,06,21
年間第十二主日(Lk 9:18-24) 
今日から、年間の主日に移ります。復活節を過ごしたあと、ご昇天、聖霊降臨、三位一体、キリストの聖体と、日曜日ごとに名前の付いたお祝いを迎えてきましたが、これからしばらくの日曜日は、年間第〜主日という呼び方になります。ともすれば単調になりがちな私たちの意識を、少し変えていくことにいたしましょう。

朗読箇所の始めは、イエス様がどなたであるか、弟子たちがさまざまに答えています。イエス様の問いかけは、先週朗読された、パンを五千人に分け与えた奇跡のやりとつながっているのです。

パンを食べて満たされた群衆が、「あの人は洗礼者ヨハネだ」とか、「エリヤだ」とか、「預言者の一人だ」とか言っていたのでしょう。イエス様はあまりそれらの声には耳を貸さず、弟子たち自身の言葉で答えてもらいたかったようです。ペトロは立派に答えました。「神からのメシアです」。

どこがどう立派な答えだったのか、私たちも考えてみる必要があります。ペトロは寝言を言ったわけではないのですから、何かを感じて答えたのでしょう。それを少し探っていくと、今週一週間の糧になると思います。

何かを分かって答えたかどうか、こんな話があります。ある教会で、ミサが終わってから「稽古」と言って、公共要理の勉強をみっちり一時間していたそうです。それはそれは熱の入った「稽古」だったのですが、始めてあずかった人にはとても難しくて、熱心にあずかっているみんなに感心していました。

「おじさん、たいしたもんですねぇ。話は分かりましたか」。帰り道、いっしょになったある人に、何気なく聞きましたが、その人は不思議そうな顔をしていました。尋ねた人は、よっぽど自分の勉強が足りなかったのだと思って、「いやぁ、つまらない質問してすみません」と続けると、そのおじさんはこう答えたそうです。「あんた、分かるも分からんも、稽古は稽古たいね」。

これは、実際にあった話だそうですが、わたしは、少し同情したい気持ちになります。神様の教えは、有り難い話で、分かる分からないは別にして、黙って聞く人も偉いかもしれませんが、私はやっぱりいくらか分からないと面白くないと思います。なるほどねぇ、という中身が一つなり二つなりないと、一時間の稽古は我慢くらべにしかならないと思います。

ですから、ぼんやりと、「ペトロは『神からのメシアです』と言ったんだなぁ」と思うのではなくて、どんな気持ちで言ったかな、そこまでちょっと考えてほしいのです。そうすると、すぐに自分の生活と結びつくものが見つかるはずです。

ペトロは二つのことを言いました。「神から来られた方」ということと「メシア、救い主」ということです。群衆は、口々に何者であるかを言いましたが、どれも詰まるところ人間についてでした。どれほど偉大な人の名前にたとえても、けっきょくは偉大な人間の一人にすぎません。

ところがペトロは、「神から来られた方」と言い切ります。ペトロにとって、神から来られた方はほかにどこにもいなくて、目の前にいるこの方だけが、神から来られた方なのです。ほかの誰とも比べることのできない、唯一の神だと、ペトロなりに答えたわけです。

この点を見逃してはいけません。私たちも、同じことを思いめぐらす必要があります。イエス様から、「わたしは何者か」と尋ねられて、「あなたは神から来られた方です」と、はっきり答える用意をしておくべきです。

実際問題として、私たちはペトロと同じ答えをしているのでしょうか。神様の前に自分を置いて、あるいは胸に手を当てて、イエス様のことを、ほかの何者でもない、唯一の神ですと、はっきり答えているのでしょうか。どうかすると、ほかの何かと比べていたり、ほかの何かに劣っているお方になっていることはないでしょうか。

知らないうちに、私たちはイエス様に向かって、「天秤に掛けてみましたが、あなたはたいした方ではありませんでした」というような態度を取っていることが、そこかしこで起こっているような気がしてなりません。自分の都合と天秤に掛けたり、評判や、人の目と比べて考えたりしているとすれば、明らかに私たちは、イエス様を何かと比べているのです。

事実、そのようなことがあったとしましょう。ですが、それはもう昨日までの話です。私たちは、今日、はっきりとペトロの言葉を聞きました。「あなたは、神からのメシアです」。誰とも比べません、あなたこそ唯一のお方です。このペトロの言葉を、私たちも自分の言葉にしたいものです。

実は、これからの年間の主日は、この言葉を生活の中で証ししていく、実際に生きていく季節と言い直すことができます。生活の中で、何かを選び取っていくわけですが、その時、イエス様を無視したり、比べて劣ると考えないようにしてほしいのです。
これから、年間の主日が続きます。「あなたは神です。あなたは救い主です」という言葉に、言葉でも生活でも嘘偽りのないようにととのえていきましょう。忙しくて信心などしていられないとか、神様のことを考える暇があったら、食べることを考えたほうがましだとか、こうした態度で、私たちは神様を引きずりおろすことがありませんように。