主日の福音 1998,06,07
三位一体の主日(Jn 16:12-15)
今日は、三位一体の祝日です。父と子と聖霊のお三方が、唯一の神であるという、私たちの考えを超える神秘をたたえる日です。まずは、福音書のイエス様の言葉に耳を傾けましょう。
今日の箇所は、イエス様が天に昇られる予告をされた直後に話された言葉です。「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが」と言われてから、今日の話に移っています。
私たちが十分に理解できることを確かめながら考えたいのですが、神様はお一人、この点は誰も疑う必要がありませんし、私たちにも十分理解できることです。海の神様、山の神様、いろいろ用意しなくても、唯一の、全知全能の神様がいらっしゃれば十分です。
この唯一の神様が、実は父と子と聖霊であると、イエス様はことあるごとに話してくださいました。今日の福音でも、イエス様ご自身が、父について、真理の霊について話してくださり、唯一の神に三つのお姿を描こうとしてくださっています。神の子キリストが仰る言葉に、私たちが立ち入る理由はどこにもありません。
洗礼を受け、キリスト教の教えを少なからず受けた私たちですから、父と子と聖霊の神様以外に、神様はおられないというところまでは、何とか理解できるのですが、肝心の、「父と子と聖霊が一体でおられる」という点は、ほとんど、人間の知恵ではあずかり知ることのできない神秘としか言いようがありません。
これまで、たくさんの知恵ある方々が、「三位一体の神様」について説明を試みました。聖アウグスティヌス、聖トマス・アクィナス、現代ではカール・ラーナーなど、それこそ超一流のキリスト教の学者が深い考察をしておられるのですが、それでも「これで完全だ」という説明にはたどり着けません。
あえて、これら超一流の学者に代わって言わせてもらえるとすれば、三位一体の神様について、人間が完全な説明を加えることはできないと言うことです。そうであれば、不完全を承知で、わたしも、わたしなりの説明を試みたいと思います。三位一体の神を、自信を持って証しできるような、人間くさい説明を試みてみましょう。
この大島には、百合ヶ丘キャンプ場があります。わたしが言うまでもありませんが、五月の連休には、所狭しとテントが張られ、家族で大自然を満喫しにたくさんの人が訪れました。あのテントに、わたしはヒントを得たのですが、テントを張るために、たとえば丸木を組み合わせて最低限倒れないように屋根を組むとすれば、いったい何本の丸木が必要でしょうか。
もちろん一本では組むことができませんが、二本で組むと、あるところから力が加わると、おそらく倒れてしまうでしょう。さらに一本増やして、三本の丸木で柱を組むとどうでしょう。三本の丸木が120度でちょうどいいあんばいに組み合わされると、どこから力が加わっても、一つのテントとして立派に機能するはずです。
これが、三つが一つになったときの力です。テントという、一つの働きを完全にこなすために、三本の丸木が一つに合わさっている姿。ここに、三位一体の神をぼんやりとでも思い描くヒントがあるわけです。
完全な説明など、どこにもないわけですから、あえて乱暴に当てはめたのですが、神様ご自身にとっては、何も複雑ではなくて、むしろ単純明快なのかもしれません。
もう一つ、歴史からの証明を心に留めておきましょう。イエス様は弟子たちへの最後の使命として、「父と子と聖霊のみ名によって、洗礼を授けなさい」と言われました。洗礼は、神の子供、神の世継ぎとなる大切な秘跡です。教会は、このイエス様の遺言を、歴史を通して一度も変えることなく、今日まで受け継いできました。
「イエス様の名によって洗礼を授けます」とは言いません。「神様の名によって」とも言いません。過去・現在・未来もまた、「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼が授けられるのです。この一つをとっても、先祖代々守り伝えている神様の証明として十分ではないでしょうか。
最後に、今日のミサの最初に、「祈りましょう」と招いて唱えた祈りを思い出しましょう。「聖なる父よ、あなたは、み言葉と聖霊を世に遣わし、神のいのちの神秘を示してくださいました。唯一の神を礼拝する私たちが、三位の栄光をたたえることができますように」。この大島に住む人々が、唯一の神に信頼を寄せる私たちを通して、一人でも多く「父と子と聖霊の神」に触れることができますように、続けて祈ってまいりましょう。