主日の福音 1998,05,31
聖霊降臨の主日(Jn 14:15-16,23b-26) 
今日、私たちは大きな喜びの日を迎えました。聖母行列をたったいま終え、引き続きこの聖霊降臨のミサに与っていることは、意義深いことです。

第一朗読から、今日の祝い日に思いを寄せたいのですが、五旬祭と言われる日に、弟子たちは「一つになって集まっていた」とあります。弟子たちが心を一つにして祈っていたその時に、聖霊は彼らを恵みで満たしたのでした。

じつは私たちも、同じような場面に立っています。聖母行列を終え、聖母を通して一つに結ばれてミサに移った私たちは、心を一つにしていたあの弟子たちと、同じ心構えでこの祈りの家に集まったのです。

聖霊降臨の日、弟子たちは高いところからの力に包まれるその日を待ちこがれていました。イエスと出会い、三年間いっしょにいた弟子たちにとって、神の霊を待つことは何も特別なことではなく、ごく自然の成り行きでした。というのは、彼らの先生であったイエス様は、どんな場面でも父なる神のみ旨を探し求めていたし、父なる神の前にいる自分を意識しておられたからです。その先生の弟子ですから、自分たちも神のみ旨を探し求め、できれば神の前に、神と共にいたいと願ったのは当然のことでした。

私たちはどうでしょう。ここでも、同じように時間を過ごせたのです。これまでの日曜日は問わないことにして、今日というこの日は、神を探し求め、神の前にいる自分を思い描くのに十分な準備の時間を持ったのです。

聖霊は、弟子たちだけでなく、すべての人、すべてのものを満たす愛の霊ですが、すべてに同じ程度でご自分を分かち与えるのではありません。私たちの準備の度合い、信仰の度合いに応じて、恵みを分かち与えていきます。見える準備はすでに行われました。「聖霊来てください」という「心の準備」は、どの程度でしょうか。ただ何となくではなく、具体的に願うのです。

日々の生活の中で、イライラする自分がいます。人と話すときに、つい言い過ぎてしまうことがあります。子供に、あるいは介護している両親に、感情が先立ってしまうことがあります。それらは、私の無力さを認めるに十分です。「こういう私だから、聖霊来てください」とはっきり願いましょう。

あるいは、もう少し祈りの時間に心を散らさず祈りたいと願うこともあるでしょう。自分だけ満足するような祈りではなく、神に喜ばれる祈りでありたいと思うこともあるでしょう。日々の善行や犠牲も、進歩したいと思えばいくらでも私たちにはできることがあります。こんな願いをはっきり持っているなら、たしかに聖霊に満たされるのです。

「私は、たしかに聖霊の照らしが必要だ」と感じるなら幸いです。その人は、たしかに聖霊に満たされる器を持っているからです。

「大は小を」兼ねます。器は大きいほど良いのです。たくさんの弱さや欠点を正直に認める人、なかなか進歩しない信仰の歩みを、包み隠さず打ち明ける人。こんな人こそ、イエス様は愛の霊で満たしてくださいます。聖霊は言葉の通りに、私たちを「満たして」くださるのです。

弟子たちの場面を思い出してください。「一同は聖霊に満たされ、“霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。きっと弟子たちは、「私どもは語るべき言葉を知りません。それほど弱い、はかないものなのです」と例外なく感じていたことでしょう。弱さを認める弟子たちは、たしかに大きな器を持っていました。それでイエス様は、約束通り弟子たちに聖霊を送り、溢れんばかりに満たしてくださったのです。

もし、「私はそこそこ真面目に生きているから、神様の助けなんかいらない」と考えているならどうでしょう。その人は器の準備がないので、聖霊に満たされることはないでしょう。聖霊に満たされる喜びも、霊に生かされる幸せも、決して味わうことができないのです。

正直に打ち明けますが、聖霊降臨のお説教を準備しながら、準備にも、やはり「聖霊に満たされる」必要があることをつくづく感じました。じつは火曜日に、お説教のヒントに行き当たったのですが、それから土曜日まで、どんなふうに原稿をいっぱいにすればよいのか、考えあぐねていました。それはまるで、自分の力でお説教の内容を満たしていくようなものでした。

いよいよ時間が迫って来るにつれ、わたしが悪戦苦闘していたことは、出発点から間違っていたのだと気づくのです。自分でいっぱいに満たそうとするのではなく、私のほうはできるだけ空っぽにして、神様の照らしと知恵で満たしてもらうのが本筋ではないか、いよいよになって気づいたのです。

それからの進み具合の早いこと早いこと。いままであれだけ頭をひねっても出てこなかったものが、あれよあれよという間にいっぱいになって、今度はどんなふうに締めくくればよいのか、別のことで心配になっています。空っぽの器を用意しさえすれば、ちゃんと神様が満たしてくれるものです。

最後に、弟子たちの話を聞いた人々の証言に耳を傾けましょう。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。弟子たちの器は、すり切りいっぱいに満たされたのではありません。「溢れるほど豊かに」満たされたのです。私たちとて同じことです。どんな器を用意しているにせよ、聖霊はその器を満たし、溢れ出るほど豊かに注ぐのです。

動き出しましょう。溢れ出る豊かさを、家庭の中に、社会の中に注ぐのです。心の貧しさを満たしてくれる方を、進歩に息詰まっている私を引き上げてくださる方を、伝えるべきです。聖霊が、現代のカトリック信者に、この太田尾の信者に注がれていることを証ししましょう。このミサの中で、引き続き、「聖霊来てください」と願うことにいたしましょう。