主日の福音 1998,05,24
主の昇天(Lk 24:46-53)
今日私たちは、ご昇天のお祝い日を迎えています。主の昇天が、私たちにとってどのような喜びとなっているのか、考えてみることにいたしましょう。
まず、今日朗読された聖書を確かめましょう。朗読されたのはルカ福音書と言います。これは、いちばんめの朗読「使徒たちの宣教」を書いたルカと同じ人です。同じ人が、同じ出来事を書けば、だいたい同じようになりそうなものですが、ご昇天の際の弟子たちの様子は、一見してそれと分かるほど違っています。
福音書では、イエス様が天に上げられたのち、弟子たちはイエス様を伏し拝み、大喜びでエルサレムに帰って神をほめたたえていたとなっています。一方、「使徒たちの宣教」の中では、神のみ使いの証言にあるように、「天を見上げて立っていた」ということになっています。かたや、すぐさま行動を起こした弟子たち、かたや、天に昇るイエス様を黙って見つめている弟子たち。同じ人が同じ出来事を書いたのに、これほどはっきりと弟子たちの反応を変えて書いているのは、どうしてなのでしょうか。
私なりに考えてみたのですが、ルカが書き残した二つの書物は、少し時間的な差があるのではないか、と思います。順番としては、「使徒言行録(使徒たちの宣教)」が先に書かれて、あとで「ルカ福音書」が書かれたのでしょう。というのは、出来事として、驚いてイエス様が天に上っていく様子をぼんやり見つめていた、というのは十分考えられることだからです。実際は、そのようなことがあったのだけれども、ルカは弟子たちを尊重して、こうしてはいられないと考えた弟子たちが、神殿に行って神をほめたたえた様子を、あとでは書き残した、ということです。
私は、それぞれに、味わい深いと思っています。人間は、神様のすばらしい姿に触れて、ただ呆然と立ちつくすしかないということは事実ですし、それはそれとして、目撃したならば、それを伝えに行く使命を持っていることもあるわけです。弟子たちもまた、この二つのことを自分たちの身をもって感じたのでしょう。
福音書から読み取ると、弟子たちはイエス様の昇天を大いに喜びました。それは、弟子たちにとってイエス様の昇天が、他人事と感じられなかったからでしょう。イエス様は自分たちといっしょにおられる間に、次のようなことを話しておられます。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっているならば、その人は豊かに実を結ぶ」。
ぶどうの木と、その枝というたとえを通して、イエス様につながって生きているなら、イエス様の喜び、イエス様の栄光は、枝である自分たちにも及ぶのだということを理解していました。ですから、イエス様が復活したのであれば、つながっている私たちも復活するのであり、天に昇って行かれたのであれば、私たちもつながって天の国に迎えられる。その確信があって、弟子たちは大喜びしたわけです。私たちはイエス様につながって生きているし、喜ぶときも、悲しみを背負うときも、いつもイエス様といっしょだ。そういう実感が、彼らに大きな喜びを与えたわけです。
私たちもそうです。いまの暮らし、いまの喜びや悲しみが、イエス様と切り離されていないなら、私たちもイエス様の昇天を心から喜ぶことができます。神様への感謝を忘れない人、喜びを神と分け合い、苦しみをイエス様に捧げる人にとって、栄光に入られたイエス様の姿は、もう他人事ではなくなっているのです。「私」にいちばん身近な出来事になっているのです。
ところで、弟子たちはすぐにこのような心境にたどり着いたのでしょうか。先に考えたように、弟子たちとて、最初は「天を見上げて立っていた」のです。み使いは、「なぜだまって突っ立っているのか」というような言葉を弟子たちにかけています。この招きは、「そのままぼんやり立っていなさい」という意味では決してないはずです。むしろ、時を移さずに行動しなさいという励ましの言葉のはずです。
かしこい皆さんは、「それはすぐに行動に移らなければ」と考えることでしょう。ですが、生まれて初めて主任神父になった中田神父は、ちとぼんやりしていたのです。
先週は、「広報の日」といって、各教会で集められた献金は、カトリックセンターへ送られ、世界中の広報活動に回される日でした。そのため、一週間前の日曜日に、「次は広報の日献金です」と前触れを言って、献金を集めるべきだったのです。
ところが、幼い主任神父は、そういうことも知らずに当日の日曜日を迎えました。そうしてお知らせをしなかった日に限って、献金の額が少なかったのです。なんとなく、カトリックセンターの神父様の悲しむ顔が浮かび、「しまったぁー」と、今更のように感じている次第です。
み使いは今も、主の昇天をお祝いする私たちに、「太田尾の人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」と呼びかけていることでしょう。私たちは、時を移さず行動しなければならないのです。主が天に昇られ、私たちは喜びに溢れていることを、人々に証ししていくべきです。たとえ、今の自分に困難が重くのしかかっていても、ぶどうの幹につながれているので失望しないということを、ぶどうの木であるイエス様は、苦しみを通って栄光に入られたということを、生活の中で証ししていくのです。
昇天の喜びの日に、悲しみは似合いません。人を妬んだり、おかれている生活を悲観すべきではありません。復活し、昇天されたイエス様につながれて、絶えず希望を持ち続けているカトリック信者の信仰の力を、生活を通して証ししましょう。そのための恵みを、ミサの中で祈り求めましょう。