主日の福音 1998,05,17
復活節第六主日(Jn 14:23-29)
今日の朗読で特に考えてもらいたいのは、26節の「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」というところです。たとえ私たちの知恵が曇っていても、愛の霊と言われる聖霊が、ちゃーんと分かるように教えてくださる、ということです。

かしこい皆さんは、すぐにお気づきと思いますが、もともと、イエス様が話したこととは、いったいどんな言葉だったのでしょうか。「わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と仰っていましたが、肝心の話された言葉を、私たちは覚えているでしょうか。

きっと、覚えていると思いますが、確かめてみましょう。御復活のお祝いのあと、わたしが赴任してからの各日曜日に話されたイエス様の言葉の中には、こんなものがありました。

舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(21:6,第三主日)

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」(10:27,第四主日)

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34,第五主日)

まずは、その時その時のお説教を思い出してみましょう。復活したイエス様を目の前にしているのに、イエス様に気づかない。まさかと思うけれども、そういうことは起こりうるという話。聞き分けのないパウロ君が出てきて、聞き分ける信者になりましょうという話、互いに愛し合うことに、例外も妥協もあり得ないという話。それぞれ、だいたい思い出したでしょうか。

ということは、私たちはよっぽど悪意で話を無視しない限り、一度聞いた話は覚えているのです。ましてや、二度三度と繰り返し聞いてきたイエス様の話は、忘れるはずがありません。それに加えて、今日、イエス様は、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と励ましてくださるのです。

最初の弟子たちは、聖霊降臨の出来事があってから、精力的に活動し、復活したイエス様を告げ知らせました。イエス様といっしょにいたときに見たこと、聞いたこと、そして何よりも、復活して栄光をお受けになったことなど、聖霊が弟子たちを照らし、そのすべてを理解できるようになったのです。

この場合弟子たちは、イエス様の言葉を、言ったとおり、話した言葉のまま思い出したのでしょうか。その可能性もないではないですが、私はむしろ、その中身が分かったのではないかと考えています。

つまり、イエス様の言葉を思い出してオウム返しに人に伝えたのではなく、イエス様の生き方、考え方が分かって、イエス様が生き抜いた通りに、イエス様が考えたように、大胆に行動したのではないでしょうか。

ですから私たちも、イエス様に答えて、弟子たちと同じような態度を取るべきです。すなわち、私たちはただ単にイエス様のみ言葉を思い出すのではなくて、イエス様のお望みをよく考えて生活を組み立てる必要があるのです。

たとえば、こんなことです。イエス様は、「舟の右側に網を打ちなさい」と仰いました。確かにそう仰いましたが、だからといって、私たちが馬鹿正直に、舟の右に網を入れる必要はありません。あのときのイエス様と弟子たちとのやりとりで大切なのは、「イエス様のお言葉に全面的に信頼して動き出す」ということでした。ですから、私たちが見習っていくのは、網を右に入れるか左に入れるかではなくて、今日の仕事を、イエス様にすべて信頼をおいて始めるかどうか。ここに目を向けるべきなのです。

イエス様は「互いに愛し合いなさい」とも仰いました。問題は、このみ言葉を覚えているかどうかではなくて、確かに互いに愛のわざを行っているかどうかです。「あの人とは仲良くするけれども、あの人とは絶対に協力しない」。こんなことでは、いつまでたっても聖霊の活躍する場は生まれません。こうしてじっくり考えていくと、聖霊のお導きがあれば、生きていく上でイエス様の言葉は、ひとつ残らず意味があると分かるのです。

ここまできたら、あとはもう動き出さないわけにはいきません。ちなみに、復活後のイエス様は、あれをするな、これをするなという言葉を仰いません。ご自分に倣って、大胆に生きるよう促します。私たちもそうするべきです。

それと、まさかそんな人はいないとは思いますが、「私は関係ない」と決めつけないことです。「そりゃあ、お弟子さんたちにはお命じになったでしょうが、私たちには縁遠いことですよ」。

そうでしょうか。私はそうは思いません。「今日一日を、神様に信頼して始めよう」。こうした心がけは、選ばれた弟子たちにしかできない難しい勧めでしょうか。決してそうではありません。子供から大人まで、もっと言うとじいちゃんもばあちゃんも、だれもができることです。たとえ腰が曲がっていようが、寝たきりだろうが、十分に可能な呼びかけなのです。この太田尾の信者みんなが、同じ心で今日一日、今週一週間を始めるなら、この教会は絶対に動き出すのです。

聖霊降臨まであと三週間です。わたしの中で聖霊は大いに働き、一人ひとりを神のお望みのままに動かしてくださるよう、恵みを願うことにいたしましょう。