主日の福音 1998,05,10
復活節第五主日(Jn 13:31-33a, 34-35)
今日の福音書で、おそらくみなさんも心に残った箇所は、最後の言葉「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」」だろうと思います。ただ何となく心に残すのではなく、しっかり心に焼き付ける努力をしてみましょう。

イエス様の物語を書いた人は四人いますが、その中で今日読み上げたヨハネは、イエス様に最も愛された弟子と言われ、イエス様の物語を書く中でも、いちばん親しい人でしか描けない細やかさがあちこちにちりばめられています。

今日の箇所も、ヨハネらしい細やかな気配りで、イエス様の言葉の大切さを、読む人に伝えようとしているわけです。今日の箇所から――正確には13章の始めからですが――御受難の直前まで、イエス様はほかの誰とも話さず、ただ弟子たちにだけ語りかけておられます。弟子たちのほかは誰も混じらないようにして、イエス様のいちばん心の奥深くにある思いを伝えようとするのです。

さらに、今日の箇所の最初に読みましたが、弟子たちの中から、ユダが去って行きました。弟子たちの中でも、最後までついて来る11人を前にして、イエス様は「互いに愛し合いなさい」という掟をお与えになったのです。

ここから、次のようなことを考えても良いでしょう。イエス様が残したこの掟は、「できれば守ってほしい」とか、「守ったほうがいい」とか、そういう類のものではなくて、「何が何でも守るべき」「決して忘れてはならない」それほど大切な遺言だということです。どんなに難しいときでも、どんなに疲れていても、破ってはいけない掟なのです。

「互いに愛し合いなさい」。ただ何となく聞いただけでは、そんなに難しい掟でもなさそうです。私たちは普通に守っている、そう考えている方もいらっしゃるかもしれません。けれども、もっとよく私に当てはめてみると、普通に守っていると思っていたことが、どうもいい加減に守っていたことに気づくのではないでしょうか。

結婚して、新しい人たちの中で暮らすことになります。結婚相手の親も親として大切な関わりです。けれども、うち解けて、本当に気がけているかというと、難しいこともあるのではないでしょうか。

子供が何人かいる中で、もしかしたら、気が合わない子供がいるかもしれません。我が子なのに、なぜかいがみ合っている。兄弟で、ほかの兄弟とはうまくいっているのに、あの兄弟とだけはどうしてもうまくやっていけない。そんなとき、自分の中でいい加減な妥協をして、掟を意味のないものにしているのではないでしょうか。

「あの人とはうまくいってないけれども、他の人とはうまくいっているのだから、互いに愛し合っている」。はたしてそうでしょうか。イエス様は、おおよそ互いに愛し合っていれば良い、と考えていらっしゃったのでしょうか。

そうではないと思います。あれだけ念を押して言い残した「愛の掟」に、例外はないのです。妥協も、いい加減さも許されないのです。気の合わないあの人とも、「互いに愛し合う」必要があるのです。イエス様の掟に、抜け道はないのです。

あんまり言って、みなさんをきゅうきゅう絞めても仕方ありませんから、ひとつ、大いに褒めておきましょう。この前の金曜日、私は間瀬のほうで散髪に行ったのですが、そこのご主人がこんなことを言っていました。

「この店にも、キリスト教の方がけっこう来られるんですよ。大島は、キリスト教のかたがたくさんいるんですね」

「たくさんといっても、間瀬のほうには五十軒くらいですよ」

「へぇ!そうですか?いや、たくさんいる感じがしたから」

このご主人の言葉を聞いて、私はすごく嬉しくなりました。というのは、今日の福音書のまとめに、こうイエス様がおっしゃっているからです。「互いに愛し合うなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。

六千人はいる大島の町民の中で、信者の人はわずか三百人です。5%しかいないのに、ちゃんと認められているのは、みなさんが互いに助け合って、イエス様の愛を実行しているからです。互いに愛し合っているからこそ、大島の人たちが、この島にもイエス様の弟子たちがいるんだと、ちゃんと分かってくれるのです。

実は、あと一踏ん張りしていただきたい。けっこうに信者の人がいると、認めてもらえるだけではなくて、「そんなにいいものだったら、私たちも教えを受けてみたい」そこまで、心が動かされるように、頑張っていただきたいのです。

そのためには、最初に話したように、「互いに愛し合うこと」に例外を置かないことです。すごく難しいと感じるときでも、もうこの人とはやっていけないと感じる場面でも、互いに愛し合い、赦し合うこと。こうして、私たちがイエス様の本当の弟子であることを証しするなら、きっと誰かは、「私もイエス様にすがりたい」と考えるのではないでしょうか。

もし、私たちの中である人とはいがみ合い、憎しみ合っていたら、たとえそれが小さな例外であっても、人の目には大きく見えるものです。

どんなときでも、どんな場面でも、互いに愛し合い、例外を置かず、妥協して理想を下げないでいきましょう。私たちはイエス様の本物の弟子なのですから。