主日の福音 1998,05,03
復活節第四主日(Jn 10:27-30) 
今日は福音書から、「イエス様の声を聞き分ける」ということについて考えてみたいと思います。

ここに一人、聞き分けのない子供パウロ君がいます。仮に、佐世保の大塔にある、「ハイパーセンター」での出来事だとしましょう。

「お母さん、このゲームソフトを買って」「だめ。今日は別の買い物に来たの」「ねぇ、買ってよ」「だめって言ったでしょ。そんなお金ないんだから」「いやだぁ。買ってくれなきゃ、いやだ」「だったら勝手にしなさい。お母さんは帰るからね」「いやだいやだぁー。あーん、買ってぇ。お母さーん」ひとしきり泣いても、買ってくれないと分かると、あきらめてべそかきながらいっしょに帰ることになります。こんな光景は、どこにでもある、ごくありふれた場面です。

「聞き分けがない」とか、「よく言うことを聞く」とか言います。子供の躾でもそうですが、じつは今日の福音にある、イエス様の声を聞き分けるかどうかにも、よく当てはまりますので、いっしょに考えてみましょう。

パウロ君は、ハイパーセンターで、自分がどうしても欲しいゲームソフトを見つけました。もう目から離れません。このゲームソフトに釘付けになって、ほかのこと、ほかの買い物は目に入らなくなっています。母親は、いろんな理由から−−それは予算とか、以前に買い与えたおもちゃのこととか、いろんなことを総合して−−「だめ」と言います。けれども、パウロ君はそんなことはお構いなしです。自分がこうと決めた通りにならないと、願いが叶わないのです。

本来なら、ここで「聞き分ける」ことが必要です。「お母さんがだめと言ったから、今日はだめなんだ」。たいていの母親は、頭ごなしにだめだめ言うわけではありません。よく考えた上での判断です。ですからパウロ君は、ここで素直に引き下がるほうが賢明なのです。「母親が決めたことを素直に受け入れる」これが第一のポイントです。

パウロ君は、あと一踏ん張りすれば、もしかしたらゲームソフトを買ってもらえたかもしれません。あまりひどく泣けば、他人様の目もあります。本当はあげたくないけれども買い与えたかもしれません。けれども母親の一声で、パウロ君は観念しました。「じゃあお母さんは帰るからね」。母親の声には、全面的に、絶対に聞き従わなければならないのです。そうしないと大島に帰れなくなります。全面的に、絶対に聞き従う。ここが第二のポイントです。

もう一つあります。パウロ君は、今回がまんしたことで、もしかしたら次にハイパーセンターに行ったときに、この前買ってもらえなかったゲームソフトを買ってもらえるかもしれません。母親の言いつけを聞き入れることは、母親に対する尊敬と従順のしるしになります。いつかまた来たときに、「あのときよく我慢してくれたから」と、気をよくして次には買ってくれるかもしれないのです。聞き分ける、聞き入れるということは、尊敬と従順の確かなしるしです。

この三つは、じつは私たちの信仰生活の中でも非常に大事なポイントなのです。イエス様の声を聞き分け、聞き従うために、さきに触れた三つのポイントをよくつかんでおく必要があるのです。三つの点とは、次のようなものでした。一つ、決められた通りに受け入れる。二つ、全面的、絶対的に聞き入れる。三つ、この態度は、尊敬と従順の確かなしるしであることをわきまえる。以上です。

今のカトリック教会の姿には、長い歴史の中で育ってきたもの、イエス様の時代から確かにあるもの、いろんなものが私たちの目の前にあって、もしかしたら窮屈に感じている人もいるかもしれません。日曜日にミサに行くこと、ときどき赦しの秘跡にあずかること、天主の十戒あり、公教会の六つの掟あり、たいへんだなぁーと感じている人もあるかと思います。

けれども、それらのどれ一つとして、教会が勝手に生み出して、私たちに押しつけているものはありません。イエス様の声に耳を傾け、イエス様に聞き従うために、どれ一つ無駄なものはないのです。ここに、今の私たちがイエス様の声を「聞き分ける」力が求められているのだと思います。

たとえば、イエス様は最後の晩餐で、パンと葡萄酒を使って御聖体の秘跡を定めて下さいました。大島には「いつもの奴」という焼酎があるから、それでやってみたらどうか。考えられないこともないでしょうが、神に従うためには、「神が決められたことを、決められた通りに守る」素直さが必要なのです。

また、人の一生は、自分のものでありながら、自分の思い通りにならないものです。健康でありたいと思ってもそうでないこともあるし、長生きを願ったとしてもいつまで生かしてもらえるのか見当もつきません。神様は不公平なのでしょうか。

決して、そうではないと思います。神様は私のそばを片時も離れずにいて下さいます。信じるなら、今の私をありのまま受け入れることができます。たとえ病気でも、たとえ目が見えなくても、全面的、絶対的な信頼があれば、神に感謝する人生を送ることができます。これは、「聞き分ける」第二の点です。

こうした「聞き分ける耳」「信仰の態度」は、とりもなおさず神に対する尊敬と従順の確かなしるしです。神はこうした心を持つ人に、聖体の恵みで私たちを慰めて下さいます。いつも、私が期待した以上の報いで、神は恵んで下さるのです。

聞き分ける耳を持ちましょう。イエス様の声、イエス様のご計画に、だだをこねる幼さを捨てましょう。聞き分ける耳を持ち合わせていないと感じるなら、願うことです。今日この日から、神様はふさわしい耳を、聞き分けのある大人の信仰への道を、示して下さいます。