主日の福音 1998,04,26
復活節第三主日(Jn21:1-14) 
今度から、こちらの小教区でお世話になります、中田輝次神父といいます。よろしくお願いいたします。昨日、港で盛大にお迎えいただきまして、ここに来て良かったなぁ、と心の底から思いました。ともに、新たな気持ちで信仰生活を送り、教会をもり立てていきましょう。

今日は、朗読された福音の中から、弟子たちがイエス様に気づいていく様子を少し考えてみたいと思います。目の前にイエス様が現れたのに、弟子たちはすぐにそれとは気づかずに、途中で気づき、大慌てしています。さきに、当時の様子をもう一度簡単に押さえておきましょう。

イエス様が亡くなられてのち、散り散りになった弟子たちのうち何人かが、いっしょに集まっていました。ペトロは、弟子たちの頭として、生きていくすべを見つけなければなりません。「わたしは漁に行く」という言葉がありますが、これはただお腹がすいたからというのではなくて、ついて行く先生もいなくなったことだし、またもとの漁師に戻って生計を立てなければならないという意味でもあります。とりあえず、生きていくすべを見つけよう。そんなところでしょうか。

そんな中へ、イエス様がひょっこり現れました。弟子たちはそれがイエス様だとは分かりませんでしたが、別に変装していたわけではありません。気落ちし、失望していたので、イエス様だと分からなかったのです。

つい今し方まで、イエス様と一緒に宣教活動に出て回っていたのに、見間違えた。こんなことが本当にあるのでしょうか。「まさか」と思うかもしれませんが、私は、「そういうこともあるかもしれない」と思うようになりました。

実は、似たようなことをつい十日ほど前に体験したのです。私はこの教会に赴任する前に、どんなところかなぁと思って、前にいた教会のシスターを連れて、一度下見に来たことがありました。初めて大島・崎戸に渡ってきましたので、ぐるりと島を一周しようということになり、それではということで観光課に出かけて、地図をもらうことにしました。

私は、一緒に連れてきたシスターに、「シスター、地図ばもろうて来て」と頼み、言われたシスターは観光地図をもらってくるのですが、やけに大笑いして帰ってきました。どうしたのかなぁと思って聞いてみると、とんでもない人違いをされたのだそうです。

「いやぁねぇ。神父様」「どうしたとね」「いやになっちゃうわぁ」「早う言わんね」「それがね、観光課の方に変なことを聞かれたのよ」「なんば」「私が『あのー』と言った途端に、『職安ですか』って言ったのよ」

私は、内心「まさか」と思ったのですが、観光課の人は、珍しい服を着たオバサンぐらいにしか思わなかったのでしょう。私もひっくり返りそうにおかしかったのですが、冗談ついでに、こういいました。「良かったやかねシスター、職安って言われるぐらいやけん、若う見られとっとたい。」「どうせならシスター、『教会で働きたいんですが、近くに教会はあるでしょうか』って言えばよかったとに」

こうしてみると、とんでもない人違いは、絶対にないとも限りません。弟子たちが三年も一緒に暮らしたイエス様に気づかなかったとしても、わたしたちは弟子たちを責めるわけにはいかないと思います。

問題は、どこでイエス様に気づいたかです。おそらく、百五十三匹の魚が網に掛かったときでしょう。考えられないくらいの大漁をした瞬間に、弟子たちはかつてのイエス様の面影と、目の前にいるこの人とが重なったのです。

イエス様と一緒に宣教活動に出ていた頃、五つのパンと二匹の魚を増やして、五千人に食べさせ、余ったものが十二の籠にいっぱいになったのを見ていました。人をあっと言わせるような豊かさで、心も体も養ってくださったイエス様と、目の前のこの人が、今ようやく重なったのです。今、目の前で、十分すぎるくらいの魚を用意してくださって、ご自分が救い主であることに気づかせてくださったのです。

弟子たちは気づきました。ではわたしたちはどうでしょうか。同じイエス様に養われるために、今こうしてミサに与り、ご聖体をいただこうとしています。希望を失い、うつむいている人に、勇気と力を与えたイエス様に、私たちも今近づこうとしている。そのことをちゃんと気づいているでしょうか。

みんながみんな、気づくわけではないかもしれません。ペトロなどは、一緒に漁に出かけた弟子たちのうちの一人が気づいて「主だ」と言ったので、ようやく気づいたわけです。ですから、ここに集まったみなさんが、すべて気づくとも限りませんが、少なくとも誰かが、あのすばらしいイエス様に私は養われて、今週一週間幸せだった、次の一週間も感謝して生きよう、そんな心を起こしていただきたいのです。

日曜日のミサは、「行かんば、罪になるけん」行くというのではなくて、かつてあれだけの奇跡で人々を養ってくださったように、今も私たちを養ってくださる」だから行くのです。だから、少々苦労してでも来てほしいのです。

これからも、ミサを大切にして、信仰生活によい習慣を付けましょう。「顔を出しに来る」のではなくて、「養ってもらいに」来ましょう。イエス様は、期待に倍する恵みで養ってくださいます。