主日の福音1997,03,09

四旬節第四主日(Jn3:14-21)

 

「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」(3:20)。朗読箇所中、この箇所を読み返しながら、申し訳ないけれど、本当に済まないと思うけれども、教会学校の中学生のことを思い出しました。土曜日の教会学校を終え、夜の7時からのミサ中、ずっと教会のまわりでウロウロ、ウロウロしている中学生。君たちばっかりじゃないけれども、ほとんどが君たちだよなぁ、そう思いながら説教を考えていました。

「神父様、たまには教会の周りを巡回してみてください。中学生がいっぱい、そこらでたむろしているんですよ。叱って教会の中に追い込まなきゃ」。要理のシスターからこのようなお叱りを受けたことがあります。そんなものかなぁ、と思いながら、教会をぐるりと一周してみると、なるほど中学生と思しき連中が、光よりも闇を好み、私の気配に気づくと、物陰や、木の幹に上手に姿をくらませているではありませんか。

 

「おいおい、ちゃんと教会に入らなきゃ。これじゃあミサに与れないじゃないか。」

「神父様、僕たちは反抗期なんですよ。ほっといてください。」

 

自分で反抗期だと言い張るところが、可愛い気もするのですが、根本的な解決にはなりません。辛抱強く、憎まれ役を買ってでないと、子供たちは自分の主張にあぐらをかくことになります。

 

「こらっ、そこの中学生。ちゃんと教会に入りなさい。」

「あ、いや、その、僕は今トイレに行こうとしてたんですよ。」

「トイレに行く人が、玄関の階段でのんびりすわっているもんか。問答無用。入りなさい。」

 

観念して教会に入りはしたのですが、今度は教会の壁に張り付いて離れません。せめて教会の中程に座らせたいのですが、そこには髭面のおっさんたちも張り付いています。これでは弁の立つ中学生から、「僕たちには注意して、あのおじさんには注意しないなんて、不公平だ」と言われかねません。ここは一歩引いて、彼らの「反抗期」とやらに従うことにしました。

よくよく考えてみると、中学生の何ともしれない「密やかな楽しみ」は、少年時代同じことを体験していない私には今一つ理解できないのです。というのは、私の出身教会では、余程のことがない限り、土曜日の夜のミサなんてありませんでした。ですから、闇に隠れ、徒党を組み、コソコソとおしゃべりをするスリルとやらは、そんな環境になかった私に理解できるはずもありません。ただ私の信念「教会に来たら、ミサに与るのが当たり前」を、体を張って教えるだけです。

 

一方では、私なりに心の底にある原因を考えたりもします。何が足りないのだろうか、何が、中学生を光から遠ざけてしまうのだろうか。そうして思い当たったのが、今日の福音の最後の節です。「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(v.21)。イエス・キリストが説く「真理」。これが中学生のなかに欠けているので、光の方に、ミサであれば聖堂の中に、入ってこないのではないか、ということです。

キリストが説いてくださった真理。それは疑いもなく、イエス・キリストの言葉・考え方・行動のなかに示されています。貧しい人、苦しめられている人の味方になられたイエス。奇跡と権威ある言葉で神の愛を示し、どんな人も神に愛されていることを教えてくださったイエス。道・真理・命となってくださったイエス。こんな姿を、どれか一つでも確実に学び、心の中に温めていたら、子供たちはイエス様に近づこうとするのではないでしょうか。

「イエス様は僕たちのリーダーなんだ。」そんな確信があれば、自分から教会の中に入るのでしょうが、私自身は反省することになります。はたして教会学校の要理の中で、ちゃんとその確信が育つような教育をほどこしてきたのだろうか、何か一つでも、生きた教えを伝えることができたのだろうか、という反省です。

 

私の大好きな言葉のなかに、「真理は人を自由にする」という言葉があります(Jn8:32参照)。イエス様が、ご自分を信じたユダヤ人たちに語られた言葉ですが、今日の福音をよくまとめてくれる言葉だと思います。真理を携えて生きる人は、真理によって自由にされ、本来のすばらしい人間に変えられていくのです。

自由な人と言っても、何でも好き勝手にする人という意味ではありません。積極的によいことを選び、悪いことを避け、神様に可愛がられる生き方をする人です。私たちはともすると、「人はどう思うだろうか」とか、「あの人がいるから、私はしない」とか、いろんなことに縛られているものです。ほかにも、名誉、体裁、社会的地位など、ありとあらゆるものに縛られ、がんじがらめになっています。そこからイエス様は、私たちを解き放ち、自由にしてくださるのです。イエス様という真理に導かれ、光のほうへと来るようになるのです。

 

どうぞ、この四旬節中、「闇」から「光」へ移っていくために、真理であるイエス様を確かめましょう。私は、どんなイエス様の真理を心に抱いているでしょうか。闇よりも、光を好む人、光を仰ぎ、光を受けて、この世を照らす光になりましょう。