主日の福音1997,02,23

四旬節第二主日(Mk 9:2-10)

 

今日朗読された箇所は、「イエス様の変容」と呼ばれる箇所です。イエス様のお姿が変わり、服は真っ白に変わって、栄光をお受けになった様子を弟子たちもはっきりつかむことができました。このすばらしい光景は、間違いなく栄光に満ちた場面なのですが、「だれの栄光であるか」ということを考えると、少し難しくなってくるかもしれません。

わたしは、今のいままで、このすばらしい場面で栄光をお受けになっているのは、イエス様なのだろうと漠然と考えていました。ところが、あらためて読み直してみると、もしかしたら、これは単純にイエス様の栄光ではないのではないか、という気がしてきたのです。栄光が単純にイエス様だけのものではないと考えたのは、第一朗読にあったアブラハムとみ使いとのやりとりに関わりがあります。

アブラハムは主の命令に従い、独り子のイサクを焼き尽くす捧げ物にしようとしました。ある意味で理不尽、納得のいかない命令ではありましたが、「神が望んでおられるのであれば」と、心を鬼にして行動したことでしょう。ところが、今まさに手をかけようとしたそのときに、み使いの声で息子の命は守られ、アブラハムはその忠実な信仰のゆえに主に祝福されました。「あなたが自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう」(v.16-17参照)。アブラハムは確かに祝福されたのですが、それは、息子イサクを自分の手にかけて捧げるという、考えられないくらいの苦しみを通って与えられた祝福、栄光でした。

アブラハムに起こった出来事を、ある程度、イエス様の出来事にも当てはめることができないでしょうか。つまり、イエス様の栄光は、実は御父の栄光、父である神の栄光を身にまとったものだ、ということです。御父は、御子イエス様をいけにえにお捧げになって、栄光をお受けになった。たった一人の我が子が、造られた人間、被造物にすぎない者たちの手で十字架につけられ、捧げられるという苦しみを通して、限りない栄光をお受けになったのです。息子イサクを惜しまなかったアブラハムの報いはこの地上での祝福に過ぎませんでしたが、御子イエス様を惜しまなかった御父の栄光からくる報いは、すべての人の救いという、とてつもない大きな恵みに変わったのです。

アブラハムは栄光を受けるまでに苦しみました。剣のあとひと振りで息子を殺して捧げなければならない。できるものなら、自分がこの息子に変わって捧げものになっても構わない。それほど苦しんだことでしょう。そうであれば、御子を実際に捧げなければならなかった(捧げる直前ではなく、実際に捧げた!)御父の苦しみはどれほど大きかったことでしょう。この苦しみを通してお受けになった栄光を、イエス様が今ご自分の身に受けているのです。ですから、この栄光がどのようにして勝ち取られたものであるかは、「私の愛する子、彼に聞け」ということになるのです。

私たちのことを振り返ってみましょう。四旬節に入った私たちは、四旬節の意義とか過ごし方を、何となくは考えているかもしれません。「犠牲をする季節だ」「本当の喜びは苦しみを通って初めてわかるものだ」。かなり、いいとらえ方です。それなら、せっかくだから、もう一歩踏み込んで、四旬節を過ごしてみましょう。「あー、やっと四旬節が終わった」という喜びではなくて、イエスが栄光を身に受けたように、私たちも、同じ栄光を受けるために、この季節を過ごす。こんな考えで過ごしてみてはいかがでしょうか。

イエス様の栄光は、御父から受けた栄光でした。すなわち、御子が命を捧げるという、最大の苦しみを通って初めて与えられた栄光です。私たちも、同じ栄光に与るために、すすんで犠牲のわざを行いましょう。犠牲や、隣人のためにする愛のわざは、自分を捨てる努力です。決して意味のないものではありません。自分を捨て、自分の十字架を背負うことで、私たちは御父から栄光をいただくのです。

「犠牲などと、そんな大げさなことをしなくても、わたしはちゃんと主の復活をお祝いできる」。いいえ、私はそうは思いません。頭の中で考えても、絶対にたどりつけない道もあると思います。この栄光は、頭の中で考えても決して味わえないものです。生活の中で、犠牲を強いなければ、絶対にたどりつけないのです。「絶対に」たどりつけません。

人それぞれ、何かの犠牲ができると思います。タバコをやめるとか、お酒を控えるとか、それぞれの考えたもので結構です。その犠牲が、キリスト信者らしい喜びに結びついていくのです。主の復活の喜びという、だれも自分の力で得ることのできない恵みにたどりつくのです。

もし、決心をまだ立てておられない方がいれば、ぜひ何かの決心を立ててこの四十日を過ごしてほしいと思います。犠牲・愛のわざは、自己満足や独りよがりを捨てていく努力の積み重ねでもあります。

こうして四旬節を過ごすなら、私たちのために命を捨ててくださったイエスとともに、御父からの「まことの栄光」に与ることができるでしょう。私たちの努力が、栄光にたどりつくものとなるように、ミサの中で続けて祈ってまいりましょう。