2003年 黙想会 第1回

(お断り)聖書本文は、日本聖書協会の「新共同訳」を使わせていただきました。

[ 1 ]

1:1 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。 1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

◆神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる

1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。 1:4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 1:5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。 1:6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。 1:7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 1:8 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 1:9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。 1:10 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。 1:11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。 1:12 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。 1:13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。 1:14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

【第1回目の黙想 要点】

●エフェソの信徒が、パウロから「聖なるものたち」と呼ばれています。

●神は、私たちを祝福で満たしてくださいました。その際、「キリストにおいて」と念を押されています(初めからの計画)。

●神が私たちを祝福で満たしてくださったのは、キリストからの恵みをたたえるためでした(永遠に向かっての目的)。

●私たち(=教会)の使命としていただいた恵みをたたえ続けるなら、あらゆるものがキリストのうちに一つにまとめられるでしょう(旅する教会の変わらぬ使命)。


【黙想 第一回目の題名】神の恵みに気付き、たたえましょう

●今年の黙想会が始まりました。エフェソの信徒への手紙を通して、日々の生活で力強く神をほめたたえる信者を目指していけるように、黙想していくことにいたしましょう。

●毎回の話の進め方をきちっと決めておきたいと思います。説教の初めに、エフェソの信徒の手紙の朗読を聞いてもらいます。だいたい1つの章を読みます。次にこの朗読に合わせて説教をいたします。最後に、だいたい5分間くらいかな、一人ひとり考える時間を持ちましょう。一人で考えますが、案内はいちおう私が進めていくことにします。

●では、一回目の説教の源になっている、エフェソの信徒への手紙第1章の朗読を聞くことにしましょう(2分38秒)。

●四つのことを取り上げたいと思います。順に進めていきましょう。朗読の初めにパウロはこう言っていました(第1章テーマ1:パウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ)。パウロは、エフェソの信徒に「聖なる者たちへ」と呼びかけています。ちょっと言うと、「黙想会に来てくださった、聖なるみなさん」ということですよね。みなさんは「何でしょうか?」と答えてくださるでしょうか。

●おそらく、「黙想会に来てくださった聖なるみなさん」と言われても、ためらいを覚える人が多いのではないでしょうか。本来聖なるお方は神お一人です。ミサの中で、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と呼びかけています。あの「聖」「尊い」という言葉を、パウロはエフェソの信徒に用い、今また私も、黙想会に参加しておられるみなさんに用いて、いっしょに味わってみたいのです。

●パウロはあえて、本来神様だけに使う「聖なる」という言葉を使ったわけですが、「聖なる者たち」という言葉は、私たちの生き方を指してそう言っているのでしょうか。みなさんが互いに「やあ、聖なる太郎さん」「おや、聖なる花子さん」とあいさつを交わすことは、はたして可能でしょうか?

●これはどう考えてもあり得ないことです。人間の力では、「聖なる生活」は歩めないと思います。「聖」という言葉の反対にあるもの、「俗」とか「肉」むしろこちらのほうに私たちの生活は染まっています。「肉」なる生活、「肉」の弱さの中にいる生活ではないでしょうか。

●では、使徒パウロが、教会の信徒を「聖なる者」と呼ぶのはなぜでしょうか?エフェソの信徒だけ特別に、「聖なる生活」を送っていたのでしょうか?いえ、違う理由で、パウロは「聖なる者たち」と呼びかけたのでした。そして同じ理由で、私たち小教区の信徒も「聖なるみなさん」と呼びかけることができるのです。

●これから解き明かしをしていきたいのですが、答えがすでに分かっている方はおられるでしょうか?こうじゃないかなあ、と思っておられる方。マイクがありますので、良かったら分かち合っていただきたいです。でもここでたくさんの時間は取れないので、すぐに何か言える方だけ。

●黙想会のお説教準備しますよね。人間って、どうしてこうなのかなあと思うんですけど、本当に時間が押し迫っても、それでも全然違うことに手を出したりするんですね。答えが分かります?って原稿に文字を打ったときにですね、「わっかるかなあ〜、わっかんねぇだろうなあ〜」という言葉が巡りまして、そう言えば聞いたことあるけど、あれ何だったっけ?と思ったわけです。バカですねぇ、でそれが気になって、今度は「わっかるかなあ〜」を調べ始めました。

●インターネットって、すごいです。調べ初めて数分で、それが「松鶴家千とせ」さんという方の漫談だということが分かりました。「俺が昔、夕焼けだった頃、弟は小焼けだった。お母さんはしもやけで、お父さんは胸焼けだった。わかるかなあ〜、わかんねぇだろうなあ〜、イエー」というものでした。

●師匠のこの唄はついでの話ですけれども、分かるかなあ〜という気持ちではいますよ。少なくとも五年間私のお説教が続いていますから、私たちが尊いのは、何のおかげか、と知恵を回してもらえれば、五年間のお説教は報われますね。私でなければ、誰のおかげでしょう?

●で、話を元に戻しますけど、私が朗読の続きを読んで考えたことはこうです。私たちの生活が「聖なる生活」だから「聖なるみなさん」と呼びかけられているのではなくて、イエス様とつながっているみなさんだから、「聖なるみなさん」と呼びかけているのですよ、ということなんです。それ以外に根拠はありません。私たちは互いに「やあ聖なる太郎さん」「おや、聖なる花子さん」と呼び合っていいのですが、そう呼び合えるのは、互いにイエス・キリストに結ばれている者だから、ということなのです。

●「イエス様に結ばれているから、『聖なる者』と呼ばれるのだ」このことを力強く説明してくれるのが、次の言葉です(第1章テーマ2:神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました)。イエス様が望んで私たちと絆をもってくださり、私たちにあらゆる祝福を注いでくださったので、私たちは聖なる者とされた、聖なるみなさんと呼び合える者に変えていただいたのです。

●ここからもう少し話を広げたいのですが、イエス様にあらゆる祝福で満たしてもらったということでしたら、それは、私たちに何かをお求めになるのではないでしょうか?神様が要求するかどうかは分かりませんが、私たちのものの考え方からすると、何かが必要な気がいたします。

●いつかお話ししたことですが、祝福で満たしてくださるというのは、イエス様から私たちへの外に向かっての動きですよね。外への動きがあれば、内に向かっての動きもイエス様が期待しておられることは十分考えられます。お与えくださったことに私たちが応えて、感謝をささげる。それをイエス様が期待したとしたら、イエス様は欲張りでしょうか?

●実はここのところが、「分かるかなあ〜」という部分だったのですが、どうでしょうか。パウロは「分かるかなあ〜」で済ませないで、ちゃんと答えまで語ってくださっています。次の言葉です(第1章テーマ3−1:神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです)。この言葉からすると、神様はちょっぴりお返しを期待していますね。バレンタインにチョコをあげた方々といって良いでしょうか。とある中学生には「3倍返しでお願いね」と言われて、「ひぇ〜」と思いましたが、そこまでなくても、お礼のしるしを期待していることと思います。ある中学生と言ったら、どの中学生か分かってしまうんですかね。これは失礼しました。

●「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」これは目的です。イエス様が天のあらゆる祝福で満たしてくださった、満たしてくださって私たちに「聖なる者」と呼び合うだけの資格をくださった目的は、「いただいた恵みを、私たちがたたえるため」なのです。

●ちょっぴり、期待しているみたいですね。少なくともパウロは、「お返しを期待していますよ、分かるかなあ〜」と言っていると思います。どのようにたたえるかはもう少し先で話すことにして、まずは私たちに注がれた数々の祝福・恵みを確認することにしましょう。

●さて恵みをいただいていると言うのですが、目の付け所をしっかり押さえておきましょう。何が恵みなのか、ということです。それは、イエス様とのご縁をいただいたものを思い出すと良いと思います。私たちが、イエス様と結ばれるようになったのは、何を通してだったでしょうか?

●それは、教会の言葉で言うなら、まずは洗礼ということになります。洗礼がなければ、それから先のイエス様とのご縁もないわけで、何をおいても真っ先に考える必要があります。教会の言葉に頼らないとしたら、イエス様から神の子にしてもらった、神の養子に迎えてもらったということです。

●私たちはどうかすると、感謝をなかなか表せないお国柄かも知れません。親への感謝もその一つでしょう。自分が子供にしてもらった、迎えてもらったことを正面切ってありがとうと言うのは、なかなか気恥ずかしいものです。神様の子供にしてもらったのですから、子として迎えてくれた神に、感謝して良いはずなのですが、十分に感謝できているでしょうか。

●と言われて頭を抱えるようでしたら、次のような例を考えてみましょう。私たちの中には、大人になって洗礼を受けた人もいます。案外そのような方は、どなたかの導きで教会に招かれ、洗礼を受けることになったのではないでしょうか。そうして洗礼を受けて良かったあ、前と比べるとこんな喜びが生活に出てきたと実感している人は、ここまで導いてくださったお友だちに、感謝の気持ちでいっぱいになっているのではないでしょうか。

●その気持ちは、大切にしてほしいですね。感謝の気持ちでいっぱいだとしたら、それは何かの形で表した方がよいのではないでしょうか。洗礼をうけたあの日を忘れないように、年に一回こんな形で感謝を表していこうとか、洗礼と同じ日に毎月、自分を誘ってくれたあの人のためにお祈りをしようとか、そういうのってすばらしいと思うんですね。

●神様は、こんな形での感謝も喜んで受け入れてくださるのではないでしょうか。ちなみに、余計なお世話かも知れませんが、私が忘れていても先方は決して忘れずに、贈り物を届けてくださるご家族があります。私は当時、たしかに何かのお世話をしたかも知れませんが、たぶん、それ以上のことは何もしてあげられなかったと思うんですね。けれども、必ず季節の贈り物を届けてくださいます。ありがたいなあと思うと同時に、なんて心やさしい方なんだろうと思っているんです。へんな話ですみません。

●イエス様は、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいましたと仰います。親子の絆をつけてくださったほかには、何があるでしょうか?これも、私たちの普段の関わりの中で推し量ってみましょう。

●親は偉いですね。子供の失敗を、全面的に許してくださいます。子供の過ちを、自分の過ちのように心を痛めてくださいます。たとえば、これは本当にたとえばということなのですが、子どもさんが警察沙汰を起こしたとします。身元引受人として当然親が呼ばれるわけで、すみません申し訳ありませんときっと謝りに行くと思うんです。そんな子供は子供じゃない、知らんとは言わないでしょう。親は、どんな過ちでもわが子の過ちだから、許してくださるわけですね。

●神様も同じことです。イエス・キリストを通して、洗礼の恵みで私たちを子としてくださった神様は、わが子の過ちを赦してくださいます。何を言っているか、お分かりですよね。そうです。赦しの秘跡のことです。私たちのどんな過ちにも、神様はわが子として、赦しを与えようとしておられるわけです。こんな親となってくださった神様に、私たちは感謝しましょうよと、招かれているわけです。

●恵みをいただいたのは、神をたたえるため。ここで言う「たたえる」とは、はっきり言うと、赦しの秘跡にあずかるということです。赦しの恵みをそそいでくださったことをたたえる、感謝する。一番わかりやすいのは、実際に赦しの秘跡にあずかることではないでしょうか?

●親が子供の過ちを許す、その思いに応えて子供が「ゴメンナサイ」と言うなら、親はもうそれだけで十分なのかも知れません。神様もそうです。赦しの秘跡の中で、「ゴメンナサイ」と言う。その一言で、神は赦しを与えてくださるのだと思います。

●もう一つ、イエス様を通して注がれた恵みを確認し、たたえるところまで考えてみましょう。これはあとでも詳しく話すことになるかと思いますが、結婚の恵みです。結婚は「神が引き合わせてくださり、神が結んでくださる絆」です。ただ単に、男女が出会って一緒に暮らす、役所に夫婦ですと届けることだけではないと思います。

●イエス様はあるところで、結婚について次のように話しておられます。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19:5-6参照)

●「二人は一体となる」という言葉がすばらしいなあと私は思うのですが、生まれも育ちもまったく違う二人であっても、神が結び合わせてくださった二人は、一体になるわけです。これはすばらしい。

●心を割って話せば、二人が互いに完全だとは思っておられないことでしょう。感心するところもあるでしょうし、不満に思っているところも少なくないと思います。そんな二人が、足りないところはあっても、一体になれるのは、これは神様のおかげではないでしょうか。

●私は、具体例は申しません。こんな不満を持っている人もおられるでしょうとか、それは言いませんが、お互い完全ではなくても、神が一体にしてくださったことを、あらためてたたえることにいたしましょう。さて、何をすればよいのでしょうか。どのようにすればたたえることになるのでしょうか。

●奥さんのいない私が言うのはどうかと思いますが、何よりまず、妻を敬うということではないでしょうか。心の底から「へえ」と感心した経験はおありでしょうか。家庭の切り盛りで、関心だなあと心から喜び合えるひとときがあれば、奥さんを通して、結婚の恵みを神様にたたえているのだと思います。「はー」と「へー」と「ほー」です。

●ここまで神がキリストを通してそそいでくださった祝福と、それをたたえること、それも具体的にたたえることについて考えてきました。生活の中でのこうした取り組みは、最後にどのような実を結ぶのでしょうか。使徒パウロはあとに続けてこう言っています(第1章テーマ3−2:こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます)。

●簡単に言うとこういうことです。私もあなたもキリストに結ばれて聖なる者、尊いものとなった。人間だけではない、万物が、最後にはキリストにつながって尊いものとなるのだ、ということです。私たちは言葉と行いでキリストに結ばれたことをたたえますが、最後には、すべてのものが何らかの形で神をたたえるのだ、ということなんです。その、最初の始まりは、私たちが「聖なる者」と呼びかけられる理由を十分に分かって、呼びかけに応えること。ここから始まるわけです。

●これからは、「聖なる」という言葉を耳にするときは、今日の話を思い出しましょう。ミサの中で「聖なるかな」と神をたたえるとき、「あー、私たちも『聖なる者』として招かれたんだったなあ。感謝して、神様をたたえなきゃ」と思い出すことにいたしましょう。また、「聖なる者たち」という呼びかけをパウロの手紙の中で聞いたら、あ、今日からはこれは私たちのことだ。私たちがイエス様に絆をつけていただいたおかげで、私たちは聖なる者に招かれたんだと、あらためて感謝の気持ちを呼び覚ましましょう。

◆パウロの祈り

1:15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、 1:16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。 1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 1:18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 1:19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。 1:20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、 1:21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。 1:22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。 1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

●では第1章の残りを朗読して、この時間の最後の話に入りたいと思います(1分39秒)。

●ここで言われていることは、エフェソ書全体の大きな枠と言って良いでしょう。二つの文章を取り上げたいと思います。ひとつは、こういう言葉です(第1章テーマ4−1:聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか・・(中略)・・また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように)。もう一つはこれです(第1章テーマ4−2:教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です)。

●それは要するに、どれほど豊かで輝いているか分かれば、おのずと期待されていることにもたどり着けるでしょ?ということですよね。教会がキリストの体ですと言われたら、じゃあ私たちは何をすべきか、おのずと分かるでしょ?ということなんです。

●わっかるかなあ〜。分かっている方もおられると思いますが、繰り返しておきます。どれほど豊かで輝いているかが分かれば、それは私たちも感謝してたたえる必要があるわけです。子供のことで一生懸命、教育のことで一生懸命、仕事に追われて一生懸命。けれども、一生懸命になれるその子供、仕事に出会わせてくださったのは、神様ではなかったでしょうか?何もかも忘れて没頭できるものを用意してくださったのは、またこれまで失わずにこれたのは、神様のおかげだったのではないでしょうか?だからたたえましょう!ということなんです。

●教会はキリストの体です。キリストの体に傷を付けたりできるでしょうか?キリストの体に落書きをしたり、キリストの体を粗末に扱ったりできるでしょうか?ということなんです。もちろん、建物としての教会もキリストの体なのでしょうが、キリストの体を形づくっている私たち一人ひとりに対して、ということなんです。

●キリストの体を形づくっているあの人この人をけなし、陰で悪く言う。キリストの体を傷つけていないでしょうか?いたわることも、美しく飾ることもしてこなかった。キリストの体を痛めつけていたのではないでしょうか。どれだけすばらしいものをいただいたかを分かって、分かった上で神をたたえることができるように、残りの時間、しばらく神様に心をあげてみましょう。

【祈り 第一回目を受けて】

●私たちは霊的なあらゆる祝福で満たしていただきました。いただかなかったものは何もないのです(適当な時間の沈黙)。

●そこから、「ありがたい」という、神をたたえる気持ちが湧いてきたでしょうか。実行してきたでしょうか(適当な時間の沈黙)。

●ひょっとしたら、神様からのプレゼントがなければ、私は今生きていなかったかも知れません。

●教会はキリストの体です。これまでキリストの体を、いたわってきたのでしょうか。美しく飾ってきたのでしょうか。



黙想会 2003年 第2回

(お断り)聖書本文は、日本聖書協会の「新共同訳」を使わせていただきました。

[ 2 ]

◆死から命へ

2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

【第2回目の黙想 要点】

●私たちは(パウロの言う「あなたがた」)、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのでした。

●「しかし」、憐れみ豊かな神は、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

●私たちは、恵みにより、信仰によって救われました。行いによるのではありません。

●キリストはおいでになり、平和の福音を告げ知らせられました。私たちはみな、キリストによって一つの霊に結ばれたのです。

【黙想 第二回目の題名】キリストによらなければ、私たちは救いと無関係でした

●エフェソの信徒への手紙、第2章に入ります。前半部分の朗読を聞きましょう(1分53秒)。

●最近見たくもないコマーシャルがあります。それは髪のコマーシャルです。髪フサフサ、育毛、増毛。分かる人は分かると思いますが、関係がないから見たくないのではなくて、大いに関係があるから見たくないわけです。

●以前は、何にも気にしていませんでした。ただし、手入れもしていませんでした。何も関係なかった頃の雑な手入れのつけが、今になってきたのかなあと、つくづく思います。もちろん遺伝も関係あるでしょう。けれども、まさか鏡を見て、「弱ったなあ」とため息をつくなどとは思ってもいませんでした。

●これまで、二つのことで髪を傷めてきたのだと思います。中学生の頃、面白がって脱色したりしていました。洗濯石鹸で何回も洗うと、はっきり分かるくらいに色が抜けました。髪型をばっちり決めようと、必要以上にドライヤーをかけたり、校則違反のことを散髪屋さんに行ってお願いしたりしてきたわけです。あとは、不摂生ですね。夜更かし、食べ過ぎ。それに五年間も帽子かぶらずに太田尾の波止に座れば、遺伝の要素がなくても髪がなくなるのは当然です。長い間の不摂生で、髪の毛は以前から死んでいたのかも知れません。

●そう言いながら私は、もらった育毛剤を使っております。最初に育毛剤をもらったときはショックでした。育毛剤をもらってからあらためて鏡を2枚探してきて自分で見たんです。なくなってましたね。見事に。隙間だらけ。これでは床屋さんが育毛剤を勧めるわけだと思いましたもん。

●勢いでついでの話までしてしまいますが、こちらに来る前にもらった古い育毛剤があるんですね。名前は「クロゲンロイヤル」って言うんですが、何となくこれが利きそうだったから、五年前にこちらに来た頃は試していたんです。で、最近になって「育毛剤って、何からできているのかなあ」なんて気になりまして、これまたインターネットで調べてみたんです。

●ありました。クロゲンロイヤル。インターネットで調べたところ、製造元がはっきりした商品でしたが、何と何と、回収指定品目に名前が挙がっていたんです。えええ!と思ってよく見ましたら、牛の成分が使われていたんですよ。分かりますよね。いわゆる狂牛病とか、ヤコブ病とかの騒動になっている動物ですよ。実際のところは何の関係もないらしいのですが、結構長い間つけていたので、今年あたりは狂牛病か、ヤコブ病になって、みなさんとはお会いできなくなるか?なんてうそぶいております。

●しかし、今振り返って、嘆いても戻ってこないところまで来てみて、考えるわけです。薄くなって、小学生からハゲハゲ言われても、人生が終わった訳じゃないだろうと。そりゃあギャルからキャーキャー言われることはもうなくなったと観念しなければなりませんが、世界中のすべての人がギャルなのではありません。あらためて、自分らしさって何か、自分の魅力って何かと、考える時期になったわけです。そうしてやっと覚悟が決まりました。自分は神父じゃないか。神父として、みなさまのお役に立てれば、それが一番の魅力じゃないかと。信徒のみなさん一人ひとりの救いに、自分が何か関わることができれば、それが一番じゃないかと覚悟を決めたわけです。言い方を変えると、私が自分の持っているものを一番引き出す道は、キリストに結ばれて何かをおこなうときだ、ということです。そしてキリストと結ばれての活動のうち、私が一番魅力を感じるのは「説教」ということになるでしょうか。

●本題に入りたいと思います。前半の朗読で最初にパウロが確かめようとしたことは、次の事実でした(第2章テーマ1:「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」)。もっと短く言うと、「あなたがたは、以前は死んでいたのです」となります。いきなりびっくりしますね。

●けれども、パウロの言葉は的はずれではないと思います。洗礼を受けている今と比べて、以前は私たちはみな、死んでいた、死ぬ運命にあったのです。もっと正確に言えば、キリストと関わりなく生きていたときは、私たちは死んでいたし、キリストと関係なく生き続ければ、それもまた死に至る、ということなんです。

●私たちは誰もがいつかは死ななければなりません。なぜ?と問いかけてもしかたのないことです。ちょっと前に放送された『アルジャーノンに花束を』あれ一生懸命見ていたのですが、そのドラマの中で、主人公の知能が一時的に天才にまで引き上げられて、それから知能が衰えていく様が描かれていたんですが、主人公のハル君は、知能の衰えをくい止めることができないか、天才になった自分の頭脳で答えを探すわけです。

●結果、知能の衰えはくい止めることができないと、はっきり分かるシーンがありました。私はあそこで、すがすがしい朝と重ねていたのが印象に残ったのですが、あのドラマも教えてくれている、人間が死ぬことを、誰もくい止めることはできないのです。善人も悪人も、死ななければならないわけです。

●パウロが言う、「あなたがたは以前は死んでいたのです」ということは、このような神の定めについてと考えたらよいと思います。さらに人間の至らなさのために命を縮めている人もたくさんいる。肉や心の欲するままに行動して、神の怒りと表現されている「死」「滅び」を免れることはできなかったのでした。

 

●ですが、あるところから運命は変わります。パウロも「しかし」という強い言葉で、これまでの話の流れを断ち切って、次のように言うのです(第2章テーマ2:「しかし」、憐れみ豊かな神は、(中略)罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、(中略)共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました)。憐れみ深い神が、イエス・キリストをこの世に送ってくださり、私たちは生きるものとなった。イエス・キリストと関わりのある生き方に招かれて、私たちは滅び行くしかない運命から救われた、ということです。

 

●もう少し言葉を補うと、イエス様がおいでになるまでは、何が何でも死にゆく運命、それも、救われるのかどうかも分からないままに滅んでいくしかなかったのですが、イエス様がおいでになり、「わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる」と招いてくださったので、運命は変えられたのです。洗礼を通してイエス様と関わりを持ったことで180度運命は変わったのです。

 

●ここから、私たちは生き方に目を向け直してみたいのです。どうせ死ぬなら、誠実に生きても何の意味があるでしょうと、そういう考え方も、キリストを知る以前ならあり得たかも知れません。ですが今や、人間の死は新たないのちへの門となりました。キリストによって、復活への門となったわけです。そうであれば、この人生を誠実に生きることには意味があります。また神の子として、ふさわしい生き方を考えることは意味があるのです。

 

●キリスト以前には、善人も悪人も、誠実に生きた人もデタラメに生きた人も、ときが来れば人生の幕を閉じる、ただそれだけだったかも知れません。けれども今は、キリストと結ばれて生きています。洗礼を受け、洗礼に続く諸々の恵みにあずかりながら生きています。神はその私たちに、報いを用意しておられるのです。神が人となっておいでくださり、正しいと認められた人には正しい報いを、悪とされた人には滅びが待っていることを示してもらったのです。何よりも、救いがあるということが、キリストと出会わなければ分からなかったのです。

●そう考えてみると、わざわざ滅びへ至る道を選ぶ理由はどこにもありません。キリスト以前に戻る理由もどこにもありません。私たちは真実に出会ったのですから、神に受け入れられる生活を探し求める必要があるわけです。

●たとえば、私は見た目の格好がどうだこうだと外見をすごく気にしていた時期がありました。けれどもそれは一時のことでした。今は、キリストと少しでも関わりのある生き方でなければ、本当の意味での自分を引き出すことはできないと感じています。そしてそれは、自分にとっては、神の言葉の解き明かし、説教かなあと感じているわけです。

●あなたにも、きっと自分らしさを引き出す生き方があるはずです。ただ、才能に乗っかっての表現ではなくて、イエス様と関わりを持った中での自分らしさを見つけてください。朝夕の祈りを通して、祈りのひとときを持ちながら、自分の持ち場で一日一日力を発揮する。まずはこれが基本ではないでしょうか。

●その上さらに、音楽に秀でた人は音楽で、スポーツで、社会福祉でとか、それぞれの専門職を与えられたことを神に感謝しながら、社会に貢献して行くなら、本当の意味で、生きた働きをしていると思うのです。イエス様と何の関わりもなしに積み上げた結果は、たとえしばらくの間誰かが覚えてくれていても、いつかは忘れ去られます。記録も破られていきます。ですが、神との絆を持ちながらの働きは、神が永遠に記憶してくださるのです。そうであれば、あなたの働きが、本当の意味で生きるのではないでしょうか。

●さてここまで、私は「キリスト以前の生活」と、「キリストを知ってからの生活」が、「死んでいた生活」と「本当の意味で生きているといえる生活」くらいの開きがあることを解き明かしてきました。私自身のことで言えば、格好ばかり追い求めていた時代は、本当の意味では生きていなかったけれども、ハゲを隠しようもなくなってから初めて、「あー、自分らしく生きるって、今から始まるのかなあ」と覚悟が決まったわけです。

●ただ、みなさんに解き明かしをしたからといって、私はそれを誇ることは許されていません。私の才能で解き明かしをしたわけではないからです。この黙想会の準備をする中で、イエス様が、聖霊の照らしを注いでくださって、「あー、こうかなあ」と感じたところを話したまでです。何も誇るものはないと思っています。むしろ、「いやあ、少しでも伝わればいいけれど、どうかなあ」と、今でもそのことばかり気をもんでいます。

●第2章の前半を締めくくる中で、パウロの次の言葉を取り上げたいと思います(第2章テーマ3:事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです)。

●解き明かしは、いくらかできたかも知れません。けれども、目を開かせるものは解き明かしの上手下手よりも、むしろ解き明かしをする神のたまものが成せるわざなのだと思います。キリスト以前と、キリスト以後では、私たちの希望に天地ほどの開きができた、そのことを教えてくれたのは、中田神父と言うよりも、むしろ注がれた恵みそのものではないでしょうか。それこそ、「誇る者は主を誇れ」(一コリント1:31)ということなんです。

●だれも誇ることをしない。けれども、みなが主を誇りとするなら、教会はすばらしい家族となるのではないでしょうか。たとえば司祭は、「おれが結婚させてやったとぞ」というなら、その司祭はもうそれで自分が何者かを見失ってしまうと思うんです。言いそうですよね。「おれが洗礼ば授けてやったとぞ」って。でも洗礼の恵みってどこから来るのでしょうか。結婚の恵みって司祭が授けてやるとか、もともとそういう恵みなのでしょうか?

●答えは明らかですよね。神様の恵みを借りて司祭が奉仕しているのですから、そんな乱暴な言い方をする司祭は、「虎の威を借る狐」です。そういう言い方では、キツネに失礼かも知れません。キツネ以下かも知れませんね。とにかく、私たちに本当の意味を与えてくださるのは、キリストとの絆なんです。キリストと結ばれているかどうかにかかっているんです。

◆キリストにおいて一つとなる

2:11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。2:12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。2:13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。2:17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。2:18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。2:19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、2:20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、2:21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。2:22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

●では第2章の後半に移っていきましょう(2分11秒)。

●ここでも、「あなたがたは以前は・・・しかし」という流れで、話を進めています。もちろん、「以前どうであったか」よりも「しかし」と強調していることのほうが大切です。それでも「以前は」とした部分にも、なかなか厳しいことが書かれています(第2章テーマ4:キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました)

●「そんなあ」と、口をとがらせておこるかも知れませんが、冷静に考えると言われている通りです。2千年前においでになったイエス様といつから関わったのでしょうか。フランシスコ・ザビエルが宣教に来たときからとしても、450年、わが家の系譜をたどると、おじいちゃんが洗礼をうけたところからが、キリスト教との関わりですという家庭はざらにあるのだと思います。曾おじいちゃんの時代には、キリストと関わりなく生きていたかも知れない。

●「イスラエルの民に属さず」。これは永久に属さずじまいです。私たちは日本人なのですから。「約束を含む契約と関係なく」旧約聖書のことを言っているのだと思いますが、これまた私たちは契約の民ではありません。

●「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」。ここで言う「希望」は、「私はこの人生を誠実に生きるなら、人生の報いを来世でも受ける」ということでしょう。来世については、人間のだれも見たこと聞いたこととして話すことはできませんでしたから、その希望はたしかに持っていませんでした。

●また、「神を知らずに生きていました」というのは、今であれば、知らなかったけれども、神をおがんで生きてきましたと言った方がよいかも知れません。まことの神は何百もいるわけではありませんから、知らなかったとしても、昔から私たちの先祖は神に祈って農業・漁業などをおこなってきたのですから、知らずに祈ってはいたと思います。

●「しかし」。これからが大事ですね。遠く離れていたのに、イエス様が血を流してくださったので近い者となりました。血は、人間のいのちが宿っていると考えられていました。血を抜けば死んでしまうのですから、そう思うのも無理はないと思います。ですから、血を流すということは、いのちを与えることを一番具体的に表していたわけです。

●手を差し伸べただけではない。溺れている人を助けるために、飛び込んで助けるというのでもない。血を流して、いのちを注いで、神は絆を結んでくださったのです。私たちは互いに、血を流してくださったイエス様によって救っていただいた者同志なのです。キリスト信者同士というのは、キリストが血を流して勝ち取ってくださった救いをいただいた者同志ということなのですね。

●だから、私たちは教会家族として、互いに協力し合う必要があるのだと思います。パウロの続きの言葉が響いてきます(第2章テーマ5:実に、キリストはわたしたちの平和であります)。教会活動を進めていく中で、この人たちは水と油だなあという取り合わせがないではありません。それでも腹を割って意見を出し合うときに、どこかで折り合いをつけて、一致していくのです。

●本当だったら、水と油が混じり合うでしょうか?水と言われる人の中にも、油と言われる人の中にも、血を流してくださったキリストがおられるから、一致できるのです。キリストは私たちの平和です。キリストがいるからこそ、教会の中には平和が保たれるのです。その人の中に、その集いの中に、この小教区の中にキリストがとどまっていなければ、平和は消え失せることでしょう。

●ここで、キリストのとどまる教会、キリストという平和を保っている教会の姿として、三つのものを描いておきたいと思います。パウロの言葉から取り上げていきたいのですが、一つは、「隔ての壁を取り壊して、神と和解する教会」です。人の集まりですから、人間的には、いろんな隔てがあることでしょう。小さなことのようですが、「あの人の口のききかたが気に入らない」とか、「あの人には言われたくない」とか、これらはすべて互いが互いを隔てる壁になっているわけです。

●隔ての壁を取り壊す。まずはキリストが、私たちの心に入ってくださって、壁を取り去ろうとしておられます。このイエス様の思いを認め合いましょう。だれも、完全じゃない。だったら、隔ての壁を取り壊しましょう。水の中にも、油の中にも、すべての人間の中に、キリストはとどまられるのです。

●二つ目は、キリストがそうなされたように、平和の福音を告げ知らせるということです。教会の中ですべての人の中のキリストを認めたのですから、社会にあっても、すべての人に働きかけるキリストを認め、その人を理解していく。受け入れていく。お互い譲れないときもあるでしょう。そんなときに、相手の中にもキリストが働かれることを考えてみましょう。近くにいて働いておられないかも知れません。けれど、神はすべての人の救いのために血を流したのです。

●三つ目。それは一つの霊に導かれて、御父に近づく。礼拝するということです。礼拝に集まるときこそ、キリストの平和を保つ教会の見えるしるしになります。より多くの人が、本当は全員がといいたいのですが、礼拝に集まり、心を一つにして祈る。これこそ、キリストがここにおられ、私たちの平和となってくださっている何よりのしるしです。

●祈ることは、どうかすると一番低い活動のように思われがちですが、礼拝の祈りは教会の出発点であり、また帰り着く帰着点でもあると思います。どうか、これら三つの形でキリストが私たちの平和なのですと証しする教会となれますように。何ごとにつけ、キリストを証しする生きた信者となれますように。

●最後に、2章の結びとなる言葉でこの黙想を終わりましょう。「あなたがたは神の家族であり(中略)、そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」。建物は組み合わされて完成するものです。芯柱だけで家が成り立つでしょうか?梁があっても、それだけで屋根が上がるでしょうか?すべてのものが組み合わされて家は成り立つのです。私たちは一人ひとりが家を作り上げるかけがえのない部分なのです。

●互いに声を掛け合い、神の家を立派に、また美しく保ち続けたいものだと思います。

【祈り 第二回目を受けて】

●私たちは以前は死んだものであって、永遠の救いの希望を持っていませんでした。

●なのにキリストは、私たちすべてのために、血を流して絆を結んでくださいました。

●けれどもそれは神からの無償の恵みであって、だれも誇ってはいけないのです。

●キリストは私たちの平和であり、私たちはそれを証しする使命があります。



2003年 黙想会 第3回

(お断り)聖書本文は、日本聖書協会の「新共同訳」を使わせていただきました。

[ 3 ]

◆異邦人のためのパウロの働き

3:1こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。3:2 あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。3:3 初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。3:4 あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。3:5 この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今やによって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。3:6 すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。3:7 神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。3:8 この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、3:9 すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。3:10 こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、3:11 これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。3:12 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。3:13 だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。

【第3回目の黙想 要点】

●今や、秘められた計画が明らかにされました。

●その計画とは、異邦人が(中略)、恵み受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。

●わたしたちは今や、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。

●キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかに思いを馳せましょう。

 

【黙想 第三回目の題名】今や、神の遠大な計画が明らかにされました

●二日目の黙想会に入りました。第3章を取り扱いますが、近い日曜日に紹介した箇所が出てまいります。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」という言葉ですが、これは今日の話の後半に触れることにして、前半部分を聞いてみましょう(2分25秒)。

●私自身の性格なのでしょうか?綿密な計画、緻密な予定というものを立てるのが苦手でして、まあ、だいたいで良かろうと、おおかたそのような気持ちで物事にあたっております。きっとそのせいで、ご迷惑をかけることもあっているのだと思います。申し訳ないことです。

●ですから、私と正反対の人、物事を緻密に組み立てていく人を見ると、感心します。たとえば職人の中でも「匠」と言われる人のワザ。どんな小さな仕事でも、仕事の大小に関わらず、いっさい手を抜かずに仕事をします。ですから、そういう匠の手による作品を一つでも持っていれば、その作品から汲み尽くせないほどのことを学ぶわけです。

●同じようなことは、囲碁や将棋の名人にも当てはまるかも知れません。名人が一手進めると、それを解説する人が、「ここからこうなってあーなって、またはこういう展開も考えられます」と、素人には考えつかないほどさまざまなことを相手に思わせる、神経を使わせることになります。

●聞き覚えて大変申し訳ないのですが、将棋の名人と言われる人は、25手先までのことが頭の中に入っているのだそうです。「こう打ったら、次はこう来るだろう」「さらにこう打ったら、それにこう返すだろう」25手先って、いったいどれくらい局面が進むのでしょうか?私のようなものには、それは永遠のように感じられます。

●このように、わりあい身近なところでさえ、気の遠くなるような計算、また計画を心に秘めた方々を目にするわけですから、神様がお考えの計画は、どれほど大きいことでしょう。神様がお造りになった人間が、25手先までのことを考えているといって驚いているのですから、その造り主である神様は、いったい何百手先までの計画を心に留めておられることでしょうか?

●そのようなお気持ちで、この第3章に目をやってほしいと思っています。3章の初めのところで、「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました」とあります。パウロが、「秘められた計画」と言っているご計画が、私たちが今から考えようとしていることなのです。

●もちろん全部ここで解き明かすということではありません。パウロが私たちに示してくださった部分を確かめてみましょうということです。神様が心に秘めておられた計画を、いつどのようにしてお示しになったのか、そしてその中身はどのようなものだったのか、少しずつ確かめていくことにしましょう。

●朗読を読み進める中で、いくつも鍵となる言葉が出てきます。「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでした」。ということは、キリストが御父の秘められた計画を証ししてくださったということです。いつという問題もここで同時に解決します。

●でその中身は?「その計画とは、異邦人が(中略)、恵みを受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」。あまり驚かないかも知れませんが、時間の流れとかを考えながら、異邦人へのこの計画がどれほど大きな出来事であったかを考えてみましょう。

●約束された民、イスラエルの民への計画は、アブラハムの時から始まったと言って良いでしょう。そしてこのアブラハムの子孫の長い長い歴史の中で、モーセを通して十戒が授けられ、ダビデが現れ、ダビデの子孫としてイエス様がお生まれになりました。この間おそらく2千年はあったでしょうか、約束の民に神は救いの希望を語り続けたのでした。


●ところが、イエス様がおいでになって、異邦人にも救いが広げられることが明らかになります。たとえば、シロ・フェニキアの女が娘から悪霊を追い出してください(マルコ7:26)と願う場面があります。彼女の願いがまさって、イエス様から恵みが届きました。イエス様を通して初めて、異邦人にも救いがもたらされるわけです。

●時間の流れで考えてみましょう。異邦人への神様のご計画は、2千年の長きに渡って秘められていたのです。心に留めていたことが、2千年たってようやく証しされるというのは、どれだけ長い時間でしょうか。パウロは律法を守ることではだれにも引けを取らないほど忠実なユダヤ人でしたが、自分がダマスコで受けた「異邦人への宣教」という使命は、2千年の長きに渡って秘められてきた計画であったのだと思うとき、その計画の遠大さに驚いたのではないでしょうか。

●パウロは、神様の計画の大きさに驚いただけではありませんでした。自分が迫害していたイエス・キリストの教えが2千年間秘められてきた教えであり、信じるに足る教えだと分かってからは、彼は完全に態度を改めます。そうしないではいられなかったのでしょう。彼は都合3回の宣教旅行を行いました。3度の宣教旅行を終えると、ローマで最後を全うします。

●パウロは、宣教旅行を通して、どれだけの人と出会ったのでしょうか?旧約聖書の時代から神の約束を受けているとされてきたユダヤ人の数と、キリストを宣べ伝えるようになってから出会ったユダヤ人以外の人の数を比べて考えたでしょうか?

●考えなかったかも知れませんが、パウロが、ユダヤ人以外の人にキリストを宣べ伝えに行ったことは、大正解だったと言えます。パウロがあの時使命を受けず、異邦人への宣教に梶を切らなかったら、神の遠大な計画はもしかしたら何百年も延期されていたかも知れません。私たちが洗礼を受けるのも、聖体に養われるのも、罪を赦していただくのも、何百年も遅れていたかも知れないと思うと、パウロの熱意に感謝の気持ちが湧いてきます。

●さて、手紙を先に進めていきましょう。前半の朗読の中で、結びとなっている言葉に目を向けましょう。12節「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」。パウロの確信が、同じように私たちの確信となるでしょうか。

●二日目の黙想会に入って、急にイエス様の御像を運び出しているのですが、みなさん気になってしかたがなかったのではないでしょうか。今日の赦しの秘跡のときに考えてほしかったことなのですが、あるいは考えてほしいのですが、赦しの秘跡で列に並びますよね。列に入って、一歩ずつ歩を進めます。その時、今のパウロの言葉を思い出してほしいわけです。

●「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」。本当に、いまこの気持ちになりきっているだろうか、大胆に神に近づく準備ができているだろうか、一緒に考えてみたいのです。

●私たちはいつか、神の裁きの前に立つわけですが、今取り上げているパウロの言葉は、やはり考えさせられます。たとえば学生が、名前を呼ばれて答案用紙を取りに行くような心境でしょうか?多くの人が、そうした経験をお持ちだと思いますので、少し重ねて話してみたいと思います。

●「太郎君」名前が呼ばれました。答案を取りに行くわけですが、太郎君・花子さんであるあなたは、どんな気持ちで教壇に近づくのでしょうか。「あー、何言われるかなあ。ぜんぜん書けなかったからなあ。まじめに勉強しとけば良かったかなあ」そう考える人もいるでしょう。

●ある人は、「自分は精一杯のことをした。それに答案には自信がある。胸を張って、答案を受け取りに行こう」そんな気持ちになれる人もいるでしょう。一歩一歩近づくに連れて、それぞれの思いは深まっていくのではないでしょうか。

●たとえばそれは、先の赦しの秘跡でも同じことかも知れません。一歩ずつ赦しの秘跡の場に歩を進めます。それは、一歩ずつ神に近づくことでもあると思います。神の赦しにあずかろうとして近づいているわけですが、心に感じることは、それぞれではないでしょうか。

●ある人は、恐れを感じるかも知れません。罪深い自分が神に近づけば、それはつまり裁かれるということになる。私が歩を進めるということは、それだけ「裁き」が近くなることだと、ためらいを覚えることになるかも知れません。しかしパウロは、エフェソにいるすべての人に、希望の言葉を継げたのです。「わたしたちは(中略)、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」。

●パウロが語る通り、神に近づくことは、もともと神の救いにあずかる喜びであるはずです。「恐れ」を乗り越えて大胆に神に近づくために、人は何を考えればよいのでしょうか。それは、「神に近づく」ということは、私の力ではないということに気付くことだと思います。

●もし神に近づくことが、人間の力に左右されることだとすれば、心の清い人は喜びを感じて近づくけれども、清くない人は常に恐れを感じながら、裁かれることに怯えながら近づくということになります。そうではないと思います。もともと神に近づくことは、人間にはできっこないのです。それができるのは、神が私たちに近づいてくださるからではないでしょうか。

●神の前に立つと言いますが、もともと人間の力だけで神の前に立つ、神と向き合うことなどできない。そう考えるときに私たちの恐れはいやされます。いやしということでは、イエス様が病気の人をいやされる様子が助けになるでしょう。イエス様は病気の人を憐れみ、常にイエス様のほうから駆け寄られます。しばしばそれは、「病気の人を見て」という表現で表されます。

●もちろん病気の人のほうから近づくということは難しいわけで、そこからしても、罪を赦していただく側である私たちに、むしろイエス様のほうが進んで近づいてこられ、「安心しなさい。あなたの罪は赦された」と声をかけてくださるのではないでしょうか。

●もう一つ、大胆に神に近づく場面があります。それは、ミサの中での聖体拝領です。これもまた、私たちは招かれてイエス様の食卓に着いているのだと思います。私たちの側に宴に連なる権利があってというのではなくて、招かれているから、私もあなたも感謝して聖体をいただくのです。司祭は聖体拝領前に次のように招くではありませんか。「神の小羊の食卓に招かれたものは幸い」。弱い人間だけれども、神の食卓に招かれたことに感謝しましょうという呼びかけです。

●聖体拝領で一列に並び、順番を待つことはすばらしい心の準備になると思います。私は、招かれて聖体をいただけるのだ、資格を問われれば、気後れするけれども、神が招いてくださったことに信頼を寄せて近づこう。そんな気持ちで、聖歌を歌いながら聖体拝領を待ってみてはいかがでしょうか。

●「大胆に、神の前に近づく」。私に度胸があって、恐いもの知らずで神に近づくのではありません。神が立場の違いを乗り越えて近づいてくださったことを忘れないようにしましょう。

 

◆キリストの愛を知る

3:14こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。3:15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。3:16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。3:18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。3:20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 

●それでは第3章の後半に移っていきましょう。まずは朗読に耳を傾けましょう(1分22秒)。

●「わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」。私たちも、あらたまって祈りについて考え直してみましょう。神の御前に、ひざまずいて、祈る。この姿にたどり着くまでにも、私の周りではいろんなことが起こっているように思います。

●中学生の堅信式が近づいているんですが、最近私は中学生が分からなくなってきたと感じています。そのほとんどは、中学生の気持ちが分からないということなんです。

●こんなことがありました。いよいよ堅信式が近づいてきましたので、自分たちが受ける堅信の恵みについておさらいをしてみようと考えたわけです。細々したことはあとで話すとして、中学生の姿勢というのでしょうか、基本的なところで、「自分が中学生のときって、こんなだったかなあ」と思うんですね。

●こういうことなんです。堅信の秘跡というのは、七つの秘跡といって、教会を通して神が一人ひとりに届ける恵みですよね。洗礼・堅信・聖体・罪の赦し・病者の塗油・叙階・婚姻の七つです。

●私もそんなに欲張りではないので、この七つの秘跡を一人残らずすらすら言いなさいと、そこまでは考えてないんです。病者の塗油が言えなかった、叙階が言えなかった、そういうことはあるだろうと思っています。ただ私が面白くないなあと思うのは、何か思い出せなくて詰まってしまったとき、自分の頭の中を探そうとしないんですね。「おい、なんやったかなあ」とか言って、隣の子に平気で尋ねているんです。

●私は、「おい、なんやったかなあ」の前に、自分の記憶、自分の頭の中をもっと一生懸命さがしてほしいんですね。それはテストのときに、「ねぇ、答えは何かなあ」と言っているようなものです。自分の頭に答えをさがさなければ、試験なんて何の意味があるでしょう?自分で解決するから、自分で答えを出すから、試験の意味があるわけですよね。それがないんです。

●私は、学校の勉強のことはとやかく言いません。けれども、信仰のお勉強については、私は責任を感じます。毎週日曜日はどう過ごすんだ?と尋ねて、「ねえ、何やったかなあ」では、私の考えでは頭に来るわけです。そんなことを、人が教えてくれるのでしょうか?「私は日曜日をどう過ごしたらいいかなあ?」その人の頭に考えがなければ、どうしてその人は生きていけるでしょうか?

●ついこの前の教会学校では、そうしたやりとりで私はかなり血圧が上がりました。中学生に言ったんです。君たちが堅信を受けた後、これから日曜日はどうするんだ?赦しの秘跡はどうする?社会人になって、大好きな人ができたらどうする?

●親が大きな病気にかかったり、危険な手術をすることになったら、神父様に相談に来るか?ずーっと先になって、あなたの父または母を天国に送らないといけなくなるでしょ。教会に来たら、霊名と生年月日、なくなった日を書きに来るけど、お父さんお母さんの霊名は知っているの?

●結婚してまもなく、予想できることがあるでしょ。子供が産まれた、どうするの?あなたの子供が大きくなって、つきあっている人を連れてきたら、どうしても結婚すると言ってきたらどうするの?と、堅信を受けてからこれからの長い時間に考えられるすべてのことを考えさせたわけです。

●自分の頭の中を探し回る人は、私は答えられなくても希望があると思います。けれども、「結婚することになったらどうしようかなあ。どうする?」と、人に聞いているようではもうお手上げなんですね。あなたの人生まで、人は責任取れませんよ。あなたの信仰生活まで、面倒みきれません。

●しっかり、自分で考え、自分で答えを探そうとする大人であってほしいと思いました。答えが分からないこともあるでしょう。けれど、最初から自分で考えもせずに人様に丸投げする態度は、私は許しません。

●ようやくパウロの祈りの姿、出発点に立ちました。「わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」。私が神様を意識したとき、最初に何をするか、心を天にあげるとき、何をすることから出発したらよいか。人に聞かないでください。あなたが何をしたらよいのか、あなたのほかに誰が知っているでしょうか?私は基本的には、あなたがしなければならないことは、あなたしか知りませんよ、そう考えています。

●パウロは、父なる神の前にひざまずいて祈りました。私たちも、何ら変わりないと思います。まず私たちが神様の前で何かができるとすれば、それはまず、ひざまずいて、祈るということです。

●つづいて、何を祈るのでしょうか。たぶん、置かれている立場でいろいろ違ってくるでしょう。あの人この人を神様に取り次ぐ、そういう祈りを求められている人、実際にそう祈っている人もいると思います。また、自分のこととか、家族、身近な人のことを祈る人もいるでしょう。ぜひ、自分の心に留めている人のために、心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして祈ってほしいと思います。

●ちなみに、パウロは次のようなことを祈りました。「あなたがたが、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」。

●パウロの祈った通りに祈ることは難しいかも知れません。けれども、その片鱗くらいは学ぶことにしましょう。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解できますように」。日曜日のお説教で話したかと思いますが、「どれほどであろうか」というのをパウロと同じ深さで知ることは難しい。けれども、何かは私たちにもつかむことができるはずです。

●そこで、先週の日曜日(ついこの前でなくて)に話したこととちょっとからめて考えてみましょう。先週、「百点と満点は違うのではないだろうか」みたいな話をしました。百点と満点に違いがあるとすれば、それはある意味、どう逆立ちしても縮まることのない開きなのかも知れません。百点にあと何点足しても百何点ですが、それを満点とは言わないわけです。

●何が言いたいか。つまり、私たちの祈りがたとえ百点であっても、百点では天に届かないのかも知れない、ということなんです。イエス様の祈りは満点でした。だから、父なる神に常に祈りは届いていたでしょう。けれど、私たちの祈りとは、どこかが決定的に違うのではないかと思うのです。

●ではどうすれば?それは、神であり、人であるイエス様に、私たちの祈りを託す、私の言葉で唱えている祈りをイエス様に委ねるということです。イエス様は神であり、人であるから、超えることのできない何かを超え、渡ることのできない淵を渡してくださいます。これが、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」ということではないでしょうか。

●私たちには届かないところに、ただ一人イエス様は届くお方。だから、私の祈りをイエス様にささげるのです。百点の祈りでも届かないのであれば、それをイエス様に届けて満点にしてもらう。ここに祈りのコツがあるのではないでしょうか。

●秘められた計画は、明らかにされました。大胆に神に近づくときです。今日一日、神の愛に思いを馳せることにいたしましょう。

 

【祈り 第三回目を受けて】

●2千年を経て、神はイエス様をお遣わしになり、秘められた計画を明らかにしてくださいました。

●秘められた計画が明らかにされ、信じるすべての人が、恵みを受け継ぐものとなりました。

●わたしたちは今や、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。

●キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さに、信頼を寄せましょう。



2003年 黙想会 第4回

(お断り)聖書本文は、日本聖書協会の「新共同訳」を使わせていただきました。

[ 4 ]

◆キリストの体は一つ

4:1そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み4:2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、4:3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。4:4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。4:5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、4:6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。4:7 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。4:8 そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。4:9 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。4:10 この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。4:11 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。4:12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

 

【第4回目の黙想 要点】

●私たちは神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みましょう。

●具体的には、霊による一致を保つように努めなさい。

●そのためにも、古い人を脱ぎ捨て、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

●互いに親切にし、憐れみの心で接し、赦し合いなさい。

 

【黙想 第四回目の題名】古い人を脱ぎ捨て、新しい人となりましょう

●まずは第4章のうち、半分を朗読してもらいましょう(2分56秒)。

●今年のバレンタインに、特に目を引いたプレゼントがありました。そのものの名前をズバリ言うのは気が引けるので、分かりそうで分からない言い方に置き換えて話します。それは「短い」という品物です。これだけオブラートに包んで話せば、贈ってくださった方もよもや自分のことだとは思わないことでしょう。

●包みを開けて、その「短い」という品物を見たときに、「どうして自分が今必要なものが分かるのかなあ」と思ったんです。もちろん、好みまで完全に当てることは無理でしょうが、いやあ、よく分かったなあと感心いたしました。

●実は私もその「短い」を新調したいなあと思っていたところだったんです。お恥ずかしい話ですが、つい最近私の「短い」が破れてしまったんですね。それも、大きな力が掛かって破れたのではなくて、いつの間にか破れていたんです。あれにはショックでした。

●まあ、突然ショックな出来事がやってくるわけではありませんで、その前から嫌な予感はしていたんです。バレンタイン当日、私は昼からバイクで病人まわりに出ようとしていました。昼からまわる場所は、バイクの運動も兼ねて、カブで出かけることにしているんですが、太田尾のバス停からの登り、何と私の体重に耐えられなくて、エンストしてしまったんですね。普通原付がエンストしたりしませんよね。それで、「あーこれはやばいなあ、不吉な予感だなあ」と思っていたんです。

●で、帰ってきてからお手洗いに行ったところ、破れていたんですよ。私の「短い」が。うそー!と思ったんですけれど、事実は隠しようがありませんよね。そう思いながら、直接手渡しでいただけなかったバレンタインのプレゼントを開けてみたら、替わりの「短い」が入っていたんです。これは助かりました。

●何が言いたいか。それは、一緒に住んでいるわけでもないのに、よく分かるものだなあ、ということなんです。たとえば、夫婦は二人で一人と言われたり、イエス様の言葉にも、「人は父母と離れて女と結ばれ、二人は一体となる。もはや二人は別々ではなく、一体である」と言われるように、夫婦であればそれは一心同体で分かるということもあるでしょうが、今回の一件では感心いたしました。

●黙想会に不謹慎な話だわ!と思われるかも知れません。でも今回取り上げる第4章には、当たらずとも遠からずではないかなあと思っています。第4章の書き出しでは、次のようにパウロは語っています。「平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」。パウロはエフェソの信徒に向けて、「一致を保つように」と勧めているんですね。それは、みなが一つの思いをもっているかのように、固く結ばれて生きることを言っているのだと思います。

●みなが一つの思いをもって。たとえば、教会のこの家族の中で、実際に困っている人がいれば、それをだれもが自分の困難のように感じ、互いに支えてあげる、必要なものを提供し合う、祈り合う姿ではないでしょうか。人が、自分のからだのいちばんすみで起こったことでも常に気が付くように、キリストに結ばれて、あたかも一つの体であるかのように、神の家族全員が、一人ひとりのことに心を配っている。そんなことを考えさせてくれます。もちろん、人と人が家族のように関わるだけではありません。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」。ついには、主と同じ一つの思いを持つことができるように、そのような一致まで、私たちが高められることを、パウロは思い描いているのだと思います。

●私が先に話したこととは比べようもありませんが、何と言いましょうか。私の心配をまるで自分の心配であるかのように思ってくださり、親子のように、家族のように思ってくださることを、4回目の話の切り出しにしたかったわけです。

●この、一つにまとまる力の源は何でしょうか?それは、三位一体の神ご自身です。父と子と聖霊、違いがありながら、一体の神であるというのが私たちの信仰です。私たちには、三人寄れば文殊の知恵という言葉がありますが、三位一体の神の業も、その深い計画も、完全に一つでおられるからこそ、ますます偉大なのではないでしょうか。

●さて、違いがありながら、一つの神でおられるということを、三つの場面を考えながら描いてみましょう。まずは、自分が母親のお腹の中にいるものだと考えてみてください。もちろん自分のいる場所を見ることはできませんが、お腹にいる赤ちゃんは安心なのだと思います。それは、今母親を見ることはなくても、母親を感じ、包まれているからです。

●これは、父なる神のイメージを感じさせてくれます。父なる神のイメージと言いますが、私たちは見ることも触ることもできません。ですが、「神の愛に包まれている」ことをある時感じるなら、母親のお腹の中にいる子供のように、安心できるのです。

●たとえばそれは、悲しみの中で一筋の光が見えるときかも知れません。高見司教様を長崎教区にいただいて間もなく、大司教様という大きな支えを失ってしまいました。大きな悲しみの中での、希望の光だったのではないでしょうか。それはだれの計算でもなく、父なる神に教会が常に守られていることの、一つの証だったのではないかと思います。

●次に、人となった神の子イエス様は、神様がしばらくの間、目で見、手で触れるところまで来てくださったということです。私たちの時代ではなかったにしても、神は確かにこの世に来られ、遠いお方ではなくて、私たちと共にいてくださることを証明してくださったのでした。

●それはこういうことでしょうか。生まれてから一度も親を見たことのない人に、ある親戚かだれかが、「君にはお父さんお母さんがいるんだ。そして今日、会いに来ているんだよ」と言っている場面をイメージしたらよいかもしれません。

●生まれたのですから、それは確かに父母がいるのは当然です。もしそのことだけだったら、心は動かされないかも知れない。けれども、「会いに来ている」と言われれば、激しく心を動かされるのではないでしょうか。神様はいらっしゃいますと言われるだけでなく、神様が会いに来てくださったのですと言われたほうが、やはり心を揺さぶられるわけです。

●最後に、聖霊をイメージしてみましょう。聖霊は、限られた時代の人にとどまるのではなく、すべての時代、すべての人の中にとどまられる神です。それは、目に見えないけれども、どこにでも届いていくもの(光とか、音とか、電波など)を連想させます。そして現代で言うなら、それは原子の力にたとえてよいでしょうか。

●原子というと、何か恐ろしいものを連想しそうですが、ウラン鉱石というのは掘れば出てくるものですから、それはどこにでもあると言ってよいでしょう。この石から出続ける放射線は、それこそ何年も、何十年も影響を与え続けていきます。知らない時代であれば、呪いの石とか、逆に魔法の石とか言われていたでしょうが、それはあやしいものではなく、はっきりとしたものが、石から出続けているということです。

●聖霊も、神の霊として、時代と場所を超えて、すべての人・民族に降り注がれています。そして一人ひとりの中で、社会の中で、神の心に適う生き方、社会へと導こうとしておられるのです。

●おおまかに、三位一体の神について触れてみました。三位の神は、性質は違うけれども、一体の働き、分裂のない一つの意志で人類を導いてくださっています。三様でありながら、御一体の神でおられる。どこまで思いを傾けても、描けそうにありませんが、私たちが三位一体の神に守られていること、一つであることの力が大きいことは、感じていただけるのではないでしょうか。

●多様でありながら、一致していることが、大きな力を発揮します。三位一体の神様が何よりの鏡です。そして私たち教会家族も、多様でありながら一致することができれば、大きな証しの力となれるはずです。

●そこでパウロは、次のように言っています。「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。(中略)そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」。

●違いがあれば、いつも同じ意見とは限りません。それは当然です。むしろ、では同じ人が揃ったとして、同じ意見だから簡単にまとまる、一致結束して大きな力になるのでしょうか?たとえば、すべての教会の家族が教師だったとして、あー教師だから同じ考えを持っていて、すぐに一致団結できる・・・私はどうもそうは思わないわけです。むしろ違う人たちが思いを一つにしていろんな力を集めるから、大きな力になるのではないでしょうか。

●昨年、生まれて初めてまともに長崎のおくんちを見に行ったんです。ものすごい人でしたが、大波止の会場でちょうど屋形船の舞いを見ることができました。引き手が四方について、限られた場所を縦横無尽に引いて回ります。ある時はわざと群衆に船を近づけて急に止まったりするのですが、一つの船の動きに、たくさんの違った力が結集しているのがよく分かりました。

●押す人がいれば、引く人がいる。回すのも、外回りで回る人と、内側で軸を作って回る人がいる。一体となった力って本当にすごいと、その迫力もですが、十分に味わうことができました。

●異なった人がいて、じつは大きな力になります。そこで大切なことは、思いを一つにするということです。一つの思いになるためには、どうしても一つの模範からみなが学ぶ、みなが養われることが必要だと思います。それはキリスト、人となって、私たちに生き方で模範を残してくださったキリストが、唯一思いを一つにしていく源だと思うのです。

●パウロは第4章前半部分の結びとしてこう述べています。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」神の子キリストへの信仰と知識が、私たちの思いを一つにし、結束した証しを立てさせてくださるのです。

●キリストから離れては、何もまとまりません。キリストを頭としてでなければ、何も調和のとれた実は結びません。意見がまとまらない、気持ちが一つにまとまらない。もう一度、自分たちの絆はキリストなんだと、その時こそ気持ちを新たにするときなのだと思います。

 

◆古い生き方を捨てる

4:17そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、4:18 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。4:19 そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。4:20 しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。4:21 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。4:22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、4:23 心の底から新たにされて、4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

◆新しい生き方

4:25だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。4:26 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。4:27 悪魔にすきを与えてはなりません。4:28 盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。4:29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。4:31 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。4:32 互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。[ 5 ]5:1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。5:2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。5:3 あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。5:4 卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。5:5 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。 

●後半部分に入っていきましょう(1分16秒)(1分29秒)。ここでのポイントはズバリ、古い人を脱ぎ捨て、新しい人になりましょうということです。ですが何が古くて、何が新しいかは、基準が必要だと思います。

●これまた、基準は一つでよいでしょう。それは、自分の生き方が、そのままイエス様にささげものとできるかどうか、ということです。私たちは神からいのちを与えられたものですから、いつかは神にいのちをお返ししなければなりません。

●お返しするとき、必ず生き方を通して何かの色に染まっているわけですが、安心してお返しできる生き方でしょうかどうでしょうか。これが、古い生き方と新しい生き方を区別する物差しです。

●それは、折々の祈りであったり、秘跡の恵みを受けながらの生活であったり、神に安心してお返しできる生き方に近づける確かな道があります。古い生き方とされるのは、神を知りながら、神にいのちをお返しすることを心に留めず、神に背を向ける生き方のことです。

●これとは逆に、神と共に歩く生き方があります。それは、大きく二つあって、「よくないことをしない」「よいことをする」ということです。「〜してはいけません」をひとことで言うなら、「神の聖霊を悲しませてはなりません」この言葉に尽きます。

●私は思うのですが、「何が神の聖霊を悲しませることになるのだろうか」と考え込んでしまう人もいるだろうと思います。それで私が一つ考えたのは、「結婚相手を悲しませてはならない」ということに置き換えて考えたらどうだろうか、ということです。

●妻が悲しむことって何だろう?今度は私のほうが悩んでしまいますが、みなさんの心の中で思い付くことは、きっと神の聖霊を悲しませることに通じるのではないかと思いますので、そこら辺を気に留めて生活を整えてみてはいかがでしょうか。

●「よいことをしなさい」のほうは、とてもきれいにパウロがまとめてくれているので、そのまま紹介して終わりたいと思います。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」。固い絆で新しい生き方を私たち神の家族が証しできるように、祈り合うことにいたしましょう。

 

【祈り 第四回目を受けて】

●霊による一致をいつも心がけましょう。私の持っている力を、教会の一致した証しにつなげるのです。

●古い人を脱ぎ捨てましょう。そして、新しい人、キリストにそのままささげることのできる生き方を目指しましょう。

●互いに親切にし、憐れみの心で接し、赦し合いなさい。



(お断り)聖書本文は、日本聖書協会の「新共同訳」を使わせていただきました。

[ 5 ]

◆光の子として生きる

5:6むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。5:7 だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。5:9 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――5:10 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。5:11 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。5:12 彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。5:13 しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。5:14 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」5:15 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。5:16 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。5:17 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。5:18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。5:20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

◆妻と夫

5:21キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。5:22 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。5:23 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。5:24 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。5:25 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。5:26 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、5:27 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。5:28 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。5:29 わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。5:30 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。5:31 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」5:32 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。5:33 いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。 

[ 6 ]

◆子と親

6:1子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。6:2 「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。6:3 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。6:4 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。

◆奴隷と主人

6:5奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。6:6 人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、6:7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。6:8 あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。6:9 主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。

◆悪と戦え

6:10最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。6:11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。6:14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、6:15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。6:16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。6:18 どのような時にも、に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。6:19 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。6:20 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

◆結びの言葉

6:21わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコがすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。6:22 彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。6:23 平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。6:24 恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。

 

【第五回目の黙想 要点】

●あなたがたは以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。
●光の子として歩みなさい。具体的には、十戒を守りなさい。
●特に、神を讃美することと、夫婦が互いに仕えあうことと、父母を敬うことです。
●また、絶えず互いのために祈りあいましょう。平和と恵みがありますように。

 

【黙想 第五回目の題名】あなたがたは、光の子として、歩みなさい

(朗読箇所が長いので、短い話となった第4回説教のあとに、すでに朗読は済ませています)

●もう黙想会が終わるのですねぇ。早いものです。来年からは一週間くらい日程を組んでみてはいかがでしょうか?もちろん私ではなくて、だれかほかの神父様にお願いしたいですけれども。すでに第4章まで終わったのですが、じつはこの五回目の話で、一気に二つの章を読み進めることになります。

●ゆっくり読めば、たくさんのことを取り上げられるでしょうが、ここでは十戒の掟と結びつけて要点を拾ってみたいと思います。このエフェソの信徒への手紙第5章6節以下と6章とでは、いろいろと勧めを述べているわけですが、中にはっきり十戒を意識した言葉があります。それは、「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。そこで、この最終回の話を十戒に触れることにしようと決めました。

●では中身に入っていきましょう。パウロはこの、十戒を守って生きる生き方を、「光の子として歩みなさい」という招きから入っていきます。まとめると次のようなことでした。「あなたがたは以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」。

●かつてイエス様も、光のあるうちに歩くということについて、次のように仰いました。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」(ヨハネ119-10節)。人間の生活を照らす何かの光、それを保って歩くなら、つまずくことなく生きていけるということです。そのよりどころとして、十戒はふさわしいのではないでしょうか。

●十戒。みなさん、何も見ないで言えるでしょうか。「わたしはあなたの主なる神である。わたしのほか、だれも神としてはならない」「神の名をみだりに呼んではならない」「安息日を聖としなさい」「父母をうやまいなさい」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「人の妻を望んではならない」「他人の持ち物をみだりに望んではならない」でした。

●「自分は、『第一、我は主なる汝の天主なり。我のほか、如何なるものをも天主となすべからず』という言い方でないと、しっくりいきません」という方もおられるでしょう。それはそれでよいのですが、もうその言い回しでは、中学生・高校生に覚えさせるのは無理だと思います。「我は主なる汝の天主なり」と実際に書かせてみたら、よく覚えている子でも「汝」というところを「何時」つまり、3時とか5時とかの「何時?」と勘違いして書きます。

●この点では、いろんな祈りが変わってくれて良かったと思います。「天主の御前にいでてうやうやしく礼拝せん」が、「どうして礼拝しないのに、『うやうやしく礼拝しない』と言うのだろう?」とか、「天主となすべからず」と言ったって、「〜べからず」が生活の中でほとんど使われないのですから、思いきって切り換えて良かったと思います。

●で、その十戒ですが、これだけの掟が身に付いていれば、十分生活上の導きになります。神を礼拝することについて3つ、人間同士の決まり事として7つあるのですから、生活のいろんな場面を「光のうちに歩いているだろうか」つまり、「十戒の掟に自分の生活はかなっているだろうか」と判断できると思うのです。

●もしも、もしもの話ですが、十戒を覚えていない人のために、整理して頭に入れておきましょう。神について3つの掟です。簡単に言うと、「わたしのほか、だれも神としてはならない」「神の名をみだりに呼ばない」「日曜日を神のために過ごしなさい」です。もう一回言いますね。「わたしのほか、だれも神としてはならない」「神の名をみだりに呼ばない」「日曜日を神のために過ごしなさい」。今度はいいでしょう。

●この、神に対する約束事について、パウロは次のような言葉で触れていると読みました。「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」。また、日曜日を神のために過ごすことについては、「5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」とあります。ミサの中で聖歌集を開いて歌を歌いますよね。あの歌は、詩編という旧約聖書の一書物にメロディーを付けたものです。日曜日にミサにおいでになる方は、たくさんの詩篇を詠っておられるわけです。おいでになる方は。

●今ちょっと、十戒を暗記するようなことをしましたよね。いつか話したと思いますが、中学生に十戒を暗記させて、それを暗唱させたら、いろいろなことを勢いで言う子が現れます。面白いですよ。「安息日を聖としなさい」このあとは第四の掟ですから、「父母をうやまいなさい」なんですが、もうここで詰まってしまうんですね。

●で私はと言うと、黙っているのもつまらないので、「お母さんに文句を言わなければならない、だったよな」なんて言うわけです。いかにも突っ張って、自分は反抗期が始まりましたという顔をしている中学生を前にして、たぶんそんなことではないだろうかというようなことを言ってみせるのですから、そんな掟ではなかろうとは思っていても、ますます立場が悪くなりますよね。いやあからかう側も、からかい甲斐があります。

●ほかにも、「盗んではならない」で引っかかると、「どうしても欲しい物はかっぱりなさい」とか、「偽証してはならない」で詰まれば「ウソもたまには言いなさい」とかですね。そんなはずはない、そこまでは気付いているようなのですが、どうしてもきちんと言えない。困った困ったと顔をしかめます。自分で思うのですが、私も趣味が悪いですよね。

●神に対する3つの掟が終われば、人間同士で守るべき7つの掟です。その、第一は、「父母を敬いなさい」ということでした。これは、「エフェソの信徒への手紙第6章」のいちばん初めに出てきます。これについて、伝統的に言われていることがあります。

●モーセは、シナイ山というところで神から十戒を授かりました。掟は石の板に刻まれたわけですが、石版は2枚組で、その一方は神に対する掟、もう一方は人間同士の掟が書かれていて、一方の石版の最初に刻まれた掟が、「父母をうやまいなさい」ということだったのだそうです。

●太田尾教会にもモーセ像が置かれていて、ちゃんと石版を持っていますが、この像ではそのようにはなっていないようですね。残念です。いつか石版を差し替えて、当時の言い伝えに忠実に再現させてあげてもよいかも知れませんね。もちろん私はそんな才能はないんですけれども。

●私たちの頭の中で、十戒の掟に、優先度はついているでしょうか?たとえば人間同士で求められている7つの掟の中で、どれが優先だろうか、ということです。神は、はっきりと優先順位をつけてくださったのだと思います。まずは「父母をうやまいなさい」。それは、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」これらのことよりも優先だというのです。

●最近のニュースは目を覆いたくなることが多すぎます。子が親を殺す、親が子を殺す。たしか親族の場合は罪が重いわけでしょ?人間が決めた法律さえ、親族への罪を優先にしているのですから、神が人間同士守るように決めた掟の第一に、「父母をうやまいなさい」が来るのは、当然かも知れません。

●みなさん、どうやってそれを実行しているでしょうか?具体的な形で表しているでしょうか?お互いに戒めあいたいと思いますね。

●ちなみに3月11日から、わたしの実家の両親はイスラエル巡礼に出発します。行け行けと言って押しつけたのですが、いざ決心してからも、長旅の心配、食べ物や水の心配と、心配事は尽きないみたいで、ときどき電話がかかってきます。そのたびに、大丈夫、思ったほどでもないよとか、いろんなことは案内の人がついているから大丈夫さと、いろいろ言葉をかけることになりました。考えてみると、それだけの言葉すらも、これまでかけてこなかったのかも知れないなあと思うと、反省しきりです。

●この、「父母をうやまいなさい」のくだりでは、「父親たち、子供を怒らせてはなりません」とも書いてあります。これも考えさせられます。親子共に、果たすべきことがありますよ、ということでしょうか。

●「父母をうやまいなさい」につづいて、十戒では「殺してはならない」「姦通してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」と来るのですが、エフェソの信徒の手紙では、特には書かれていません。考えてみると、親の愛情に育まれて育った人間は、殺したりはしないのでしょうし、間違った異性との関わりに陥ることも、盗んだり、うそをついたりということもないのかも知れません。そう考えると、「父母をうやまいなさい」という掟がいかに重いものかということもよく分かります。

●パウロが十戒に触れているだろうと思われるもう一つの点は、夫婦の絆ということです。「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。(中略)夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」。十戒の9番目の掟、「他人の妻を望んではならない」というところに当てはまるのだと思います。

●ただし、パウロのこうした勧めは、大前提がありまして、それを踏まえた上で読み込んでいかないと、適切に理解できなくなる恐れがあります。それは、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」ということです。たとえばそれは、お互いに尊敬し合っているからという理由でも不十分で、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合う」ことまで求めます。

●イエス様はこう仰いましたね。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(マタイ2026節)。最初はもちろん弟子たちに向けての言葉でしたが、「あなたがた」という関わりがあるところでは、みなに当てはまる言葉ではないでしょうか。

●夫も妻も、目の前に仕える相手がいるのです。それはイエス様の呼びかけに進んで答えることになります。きっと、世の奥様方はさんざん夫に仕えてきたのでしょうから、これはまず夫である男性側にしっかり考えてもらう必要があるかも知れませんね。その逆って、ちなみにあるんでしょうか?

●妻のいない私が、夫と妻へ向けたパウロの勧めで特に目を引いたのは、「妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです」という部分ですね。お恥ずかしい話、黙想会のためにあらためてエフェソ書を読み始めてから、初めて私はこの箇所に気が付きました。その意味は、反対に読めば簡単に分かります。妻をなおざりにする人は自分自身を愛していないのです。

●考えてみればそれもそうです。イエス様は、「二人は一体となる」と言いました。夫婦は一心同体のはずです。妻をなおざりにする人は、たしかに自分自身を愛していないと思います。一体であるはずの妻を愛していないのですから。ただどういうことが、妻を愛することで、妻に愛されていると思われることなのかが、体験の乏しい私では語れない部分ですね。どんなものなんでしょうか。

●妻を心から愛する、思いやる人は、他人の妻を望んだりはしないでしょう。また、他人の持ち物をみだりに望んだりもしないのだと思います。ここまで考えると、うまくパウロの手紙から、十戒の教えを学び直すことができました。人間同士守るべき掟には優先順位があるようです。父母を敬い、キリストに対する畏れおおい気持ちに立って、夫婦互いに仕え合うことでした。優先される掟からたどって、残る5つの掟についても少し考えてみました。

●もちろん、掟があって人間がそのあとということではないと思います。掟に外れているから、失格とか、そんなことはだれも考えてはならないことです。なぜなら、掟を授けたのは神様ですし、掟に沿って生きる私たちを見ておられるのも神様だからです。決めて下さるのは神様。その点は間違いのないようにしたいと思います。

●では、エフェソの信徒の手紙の最後、結びの部分から今年の黙想会の結びを探したいと思います。「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように」。

●平和。これですよね。キリストは生ぬるい平和は望まなかったけれども、まことの平和をもたらすためにおいでになりました。「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」

●これくらいで十分でしょう。イエス様が命がけで、体をささげものにしてまで与えようとした平和です。争い合う中で希望を失わずに平和を求める。平和のために力を尽くす。家庭の平和を保つ。こうして初めて、私たちはイエスの友であり、神の子の一員なのではないかと思うのです。

●最後に、灰の水曜日に向けて、教皇様が2月23日に緊急メッセージを発表しておられます。その中で、平和を願う固い結束のしるしとして、祈りと断食を実行するようにと招いておられます。灰の水曜日、18歳以上59歳の方は、断食の義務があります。灰の水曜日の務めを、今年は教皇様と心を一つにして実行いたしましょう。

●メッセージを読み上げます。

 教皇ヨハネ・パウロ2世は、2月23日正午恒例のアンジェラスの祈りの集いを行われた。
 この際の説教で、教皇は、戦争の危機をはらんだ現在の緊迫した世界情勢に、今一度、人々の注意を向けられた。
 教皇は、宗教は異なってもすべての信仰ある人々は、「対立するところに幸福はなく、テロリズムと戦争の論理に人類の未来の保証はない」と宣言すべきだと話された。
 そして、教皇は特にキリスト者の平和への義務を説かれ、来る3月5日の「灰の水曜日」(復活祭の準備期間である「四旬節」の初日)には、すべての信者は平和のために祈り、断食するようにと呼びかけられた。
 説教の最後に、教皇は「平和のために働く人々は幸い、その人々は神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)というイエスの言葉を引用され、この言葉が世界に再び力強く響き、受け入れられるよう、「平和の元后」聖母マリアに祈られた。

●平和のために祈りながら、今年の黙想会を終わりたいと思います。では、祈りの時間を持ちましょう。

 

【祈り 第五回目を受けて】

●以前私たちは暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。
●光の子として歩みましょう。具体的には、十戒を守ることです。
●優先されるべきは、神をたたえること、父母を敬うこと、夫婦が互いに仕えあうことです。
●互いの、平和のために祈りましょう。

頁の先頭へ

バックナンバーの頁へ  ホームページのトップへ