主日の福音 000,12,25
主の降誕(日中)(jn 1:1-5,9-14)
降誕の核心を見極めるように

クリスマスのミサのために、教会は三つの典礼を用意してくれています。昨晩おこなった「夜半の典礼」朝早くおこなう「早朝の典礼」そして、今日は私はあえて、「日中の典礼」を選びました。そしてこの日中の典礼で、今私たちは礼拝を進めていることになります。

日中の典礼に選ばれた福音書は、ヨハネによる福音書です。聖書通読リレーに参加された方は、覚えているかも知れません。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった…」という書き方で始まる物語です。

実は今日朗読した、わずか10節くらいの中に、ヨハネは天地創造から、イエス様の誕生までを、大胆に書き綴ったのだと言われております。天地創造に際して、神は言をもって「光あれ」と仰り、その通りになったとされています。

また、なかほどでは、言が人間の世界にとどまり、特にイスラエルの民と共にあったこと、けれどもイスラエルの民は、言を受け入れなかったことをほのめかして、神がイスラエルの民と共にいて、苦難の歴史を共に歩まれたことに触れます。

そして最後に、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」というところで、イエス様の誕生を紹介しています。「イエスキリストの誕生」「マリアとヨゼフ」とは書いておりませんが、起こった出来事、つまり「神様のみ言葉が、人となって現れてくださったこと」に重点を置いて、同じ内容を書いているのです。

ここで、聖書のもとの言葉にちょっと触れておくと、言と日本語になっている単語は、「ダーバール」という単語だそうで、それは、話し言葉、書き言葉の言葉だけでなくて、もっと広い意味で「出来事」を意味するのだそうです。天地創造の時から、「初めにダーバールがあった」と読んでいただければ、もっと新鮮に聞こえるかも知れません。神様が天地創造をお始めになるときに、ごろ寝して「光あれ」と言ったのではなくて、手も足も動かして、どんどん働いて、天地をお作りになった。世界は、ダーバールが最初にあってできた、ということなのです。

そうしてみると、イエス様の誕生にあたる場所も、もう一度読み直してみると、新しい発見があると思います。「言は肉となって」、すなわち「ダーバールは肉となって、わたしたちの間に宿られた」。

飛んでいって、消えてしまうようなわたしたちの言葉ではなくて、「出来事」と言ってもいい重みを持った「ダーバール」が、人となられて、わたしたちの間に宿られたのです。いつも最初に働いて、計画を実現し、完成させてくださる神が、とうとう「栄光」を現してくださったわけです。

私たちは、いつもヨゼフとマリア、馬小屋で眠る幼子、そこにやってきた羊飼いという姿に助けられながら、クリスマスをお迎えするわけですが、この目に見える飾りは、教会が違えばそれぞれ違ってきます。もっと目を開いて物事の本質を見ようとすると、ヨハネが、そうした飾りに頼らずに、神が決定的な仕方で、わたしたちの間に宿られたと紹介しているのは、私たちにもクリスマスの意味をもう一度考えさせてくれるかも知れません。

つまり、イエス様がもしも宿屋でお生まれになっても、だからといってイエス様でないということではありません。イエス様は馬小屋で生まれなければ、イエス様ではないと言えば、私たちは何かに縛られています。

あるいは、イエス様は1224日、真夜中に生まれているはずだと、どうあっても言い張るとしたら、それも何かに縛られていることになります。実際に、イエス様の誕生を1225日にお祝いするようになったのは、キリスト教がヨーロッパに伝わってからということもはっきりしていますし、1225日頃が夜の時間よりも昼の時間が長くなるので、それまでの太陽のお祭りをやめて、世を照らす光として、イエス様をお祝いするようになったということも言われています。厳密に、イエス様の誕生日といわれたら、それはマリア様とヨゼフ様しか知らないということになります。

もし、ヨハネの福音書がなかったら、私たちは本当に大切なことを忘れてしまうところだったかも知れません。いつも私たちに先立って動いてくださり、栄光を見せてくださり、恵みをもたらしてくださる神の「ダーバール」が、今わたしたちの間に宿った。これこそが、イエス様の誕生の変わりない真理ではないでしょうか。

私たちが、「あそこの馬小屋はきれかった、どこそこは豪華だった」と、見える飾りにばかり目を奪われず、神が決定的においでくださったことをしっかり見つめる目をいただけるように、恵みを願っていきましょう。わが家の馬小屋に跪きながら、神のダーバールが、確かにこの世に宿ったのだということを喜ぶことができますように。