主の降誕(夜半) 2000,12,24
主の降誕(夜半)(Lk 2:1-14)
男の子ですよ!

主の降誕、おめでとうございます。今年は日曜日とクリスマスが重なり、皆さんも朝のミサと今日の晩のミサで大変だったかと思いますが、私たち司祭にとっても、一日のうちにまったく違う話を二つ用意するということで、どこの教会でも神父様方は苦労しておられると思います。こういうのを、「産みの苦しみ」というのでしょうか。

ですが、母親は生まれ出た子供を見ると、いっさいの苦しみを忘れると言います。まったく同じとは言えないにしても、やはり司祭にとっても、こうして無事にクリスマスを迎えると、そのすべての苦労が報われるというものです。歌の練習も、小さな犠牲やおささげも、すべて今日のためのものですから、ひときわ大きな声で祈り、歌を歌うことで、今日まで積み上げた準備をすべて出し切って、喜びを表していくことにいたしましょう。

さて、今日私が皆さんにお伝えしたいメッセージは、ひとことで言えば、「生まれましたよ!」ということになるでしょうか。「男の子ですよ」と言い換えても構いません。初めての子供を授かった夫婦が、今の時代でしたら産婦人科の病院で、看護婦さんに「生まれましたよ。母子ともに、元気ですよ」と声をかけられている様子を思い浮かべたらよいと思います。

安堵と、感謝の気持ちが一度にやってくる、あの思いが、2千年前のこの日にも、マリアとヨゼフに、彼らを通して羊飼いに、また民全体に与えられたのです。あの日、あの時、あの場所でと、詰めて考えれば、幼子の誕生はマリア様とヨゼフ様に与えられた喜びですが、お生まれになったお方は救い主、主メシアでした。第一朗読の言葉を借りると、闇の中を歩む民が見た大いなる光、死の陰の地に住む者の上に輝きいでた光だったのです。

明日の8時のミサでも取り上げるのですが、イエス様はある日、ある時、ある場所でお生まれになりましたが、時間も場所もまったく離れている私たちにとっても、イエス様を信じるすべての人に光となるためにお生まれになりました。人生真っ暗、一寸先は闇、そんな、誰にもどうしようもないような人生にある人にも、決して消えることのない心の光として、おいでくださったのです。

まだ、イエス様はひとことも言葉を発しません。安らかにまぶねに横たわっているだけです。ですが、もう私たちの救いは始まったのです。「あなたの罪は赦された」「安心して行きなさい」「あなたは今日、わたしといっしょに楽園にいる」。どの言葉も、まだイエス様の口から発せられていません。ですが、私たちは必ずこれらの言葉を聞くことになるのです。

この幼子が、本当に私たちの罪の赦しのために、救いのために、命を賭けてくださるか、心配する必要がないのです。今、ここに静かに眠っている幼子が、実は、今この姿のままで、もうすでに十分な力を持っておられるのです。

天の大軍は、神を賛美して言いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。天使は、曇りない知恵で、この幼子からすべてのことを学んで、神を讃えたのではないでしょうか。もう、神様の計画はイエス様によって完全に始まった。もう、涙を拭いて、喜ぶときが来た。

ちょうど一年前、教皇様が聖ペトロ大聖堂で、大聖年の開会式のミサを執り行ったことが、つい昨日のように思い出されます。もしよろしかったら、その時の様子を収めた物もおいておきますので、どうぞご覧になってください。一年前のクリスマスから始まった大聖年、大きな恵みの年でした。お一人お一人にとっても、素晴らしい恵みを味わう機会となったのではないかと思います。私にとっても、かけがえのない体験を積み、司祭生活の中でも記念に残る一年でした。

ぜひ、そうしたことも振り返りながら、このミサを続けていただければと思います。また、今日ここに足を運ぶことのできなかった方々もたくさんいらっしゃることでしょう。病気、その他の事情、いろんなことであずかれなかった方々も、あるいは、今このときは、心をこの聖堂に向けて時を過ごしているかも知れません。できれば、その方々のことも心に留めながら、ミサを進めてまいりましょう。

「生まれましたよ」「男の子ですよ」。この喜びが、ここにいる私たちのみならず、すべての人、民全体に与えられたことを感謝しつつ、信仰宣言に移ることにいたしましょう。