主日の福音13/08/15(No.664)
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
主の目に留まる尊い生き方

この前、とある教会の中学生をボートで釣りに連れて行きました。今年の4月から神言会の神学生として頑張っている子どもです。釣りをする場所は前もってボートで出かけ、舟竿が海中に突っ込むくらいのアタリがあった場所です。その際登山用の携帯用GPSを持って行っていたので、周りに船がいないことを確認して、緯度経度をGPSに記録しました。ここなら、神学生を喜ばせることができると思っておりました。

当日神学生を迎えに行き、前回GPSに記憶させた場所にまっすぐボートで向かいました。ところが、わたしが記憶させておいた場所に、何と漁師のウキが置いてあったのです。あれだけ周りを気にしてこっそり持ち帰ったA級ポイントだったのに、どこで見ていたのでしょうか。

それでも、イトヨリはわたしたちを待ってくれていました。到着してすぐに、パタパタと2人とも連続でイトヨリを釣ることができて、船頭の役割を果たすことができ、ホッとしております。

聖母の被昇天の祭日を迎えました。8月15日が聖母マリアの祝日であることについて、歴史的に次のように言われています。5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会で祝われるようになりました。

マリアの死去は、彼女が天に召されたことと永遠のいのちのうちに誕生したこととして記念されていたようです。やがて7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、教皇セルジオ一世(在位687〜701)は、徹夜祭やハドリアヌス教会からサンタ・マリア・マジョーレ教会までの行列などで盛大に祝っています。

マリアの被昇天の名で知られるようになったのは、8世紀末になってからです。後に1950年のピオ十二世の教義宣言に至るまで、マリア信心の深まりと同時に次第にこの日を特別な日として祝うようになりました。

ピオ十二世は自身の教皇令Munificentissimus Deusの中で次のように宣言します、「われわれの主イエズス・キリストの権威と、使徒聖ペトロと聖パウロの権威、およびわたしの権威により、無原罪の神の母、終生処女であるマリアがその地上の生活を終わった後、肉身と霊魂とともに天の栄光にあげられたことは、神によって啓示された真理であると宣言し、布告し、定義する」(『カトリック教会文書資料集』3903)。

わたしも、教会が聖母の被昇天を祝うことに大賛成です。マリアが、地上の生活を終わった後、体も魂も天に上げられたと考えるのは、マリアにふさわしいことだと思うからです。2つの理由を考えました。

1つは、マリアが主である神の御心を知って生きていたからです。朗読箇所で、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、エリサベトに挨拶に行きました。マリア自身もこれから大切な時期を迎えるのに、自分のことをいちばんに考えるのではなく、エリサベトのことを心配しました。

エリサベトは不妊の女と言われていましたが、今や身ごもって6ヶ月になっていました。エリサベトは子を宿せなかった時期が長かったので、人々から低く見られ、自分のことを恥ずかしく思っていた女性でした。

マリアは、いち早くこのエリサベトを訪ねていきます。それは、主である神の御心を自分の行動で示すためでした。つまりマリアは、神がエリサベトを見捨ててはおられない、彼女のように身分の低い者に神は目を留めてくださる。そういうことを知らせに行くためでした。マリアは主の御心をよく知って生活していたのですから、いち早く体も魂も天の栄光に挙げられることは、神の望みにかなうことだと思います。

2つ目に、マリアは御子イエスの最大の理解者でした。幼子イエスがヘロデに命を狙われ、エジプトに避難した時から、イエスの十字架の苦しみをそのそばで受け止めた最期の場面まで、人類の中でイエスの思いをもっともよく理解し、受け止めることのできた人物でした。いつもマリアは、イエスの近くにいて、離れることなく生涯を過ごしました。

このような方ですから、主である神がマリアをいち早くイエスの側にいることができるようにされた、しかも体も魂もイエスの側にいられるようにしてくださったのは、イエスの最大の理解者であったマリアにもっともふさわしいことだったと思うのです。

マリアに与えられた栄誉は、わたしたちの目標でもあります。マリアが生涯追い求めた2つの姿をわたしたちが見倣うなら、わたしたちにも神は目を留めてくださるはずです。すなわち、主の御心を知って生きること、イエスの理解者になろうとすることです。

もちろんマリアのように最上の形で2つの姿を生きることはできないにしても、これら2つを生き方の基本にすることは十分可能です。わたしたちには、神が語りかけたことを知るために聖書が与えられています。聖書に親しみ、日常生活のさまざまな出来事を見て、関連する神のことばがわたしたちの中からわき出てくる。そのような生活は可能です。

また、聖書に親しむ結果として、わたしたちが何かを判断し、決断する時に、「イエスだったらどう判断し、決断するだろうか」と、思いを重ねることもできるようになるでしょう。これはまさに、イエスの理解者となる生活です。わたしたちは聖母の被昇天をたたえながら、わたしたちにも目を留めてくださる神をたたえて生きることが可能になるのです。

最後に、朗読された福音の箇所でだれも気づかないかもしれない結びのことばを取り上げて終わりたいと思います。「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。」(1・56)これはつまり、三か月留まることが大事だということです。

わたしたちは何に三か月留まるのでしょうか。聖書のことばが体からわき出すくらいに聖書に親しみ、イエスだったらどう考えるだろうかと判断できるようになる。そのために、同じ努力を三か月続けてみてほしいのです。三か月は、何かを見える形にする一つの期間だと思います。

マリアの生き方は、神によって天に引き上げられました。わたしたちも、自分の生き方を神の目に留めていただけるよう、マリアに見倣って生きていきましょう。そのための恵みをミサの中で願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(ルカ12:49-53)
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