主日の福音13/08/11(No.663)
年間第19主日(ルカ12:32-48)
わたしたちは神のいのちを託された僕

8月9日、68回目の長崎原爆の日に、長崎大司教区主催で行われる平和祈願祭の取材のために式典に出席してきました。今年はたくさんの司教様がおいでになっておられました。

教皇庁の正義と平和評議会議長のタークソン枢機卿、駐日バチカン大使のジョセフ・チェノットゥ大司教、広島、福岡、大分の司教、平山名誉司教もミサに出席していました。これだけの教会指導者が集まるということは、長崎から平和のメッセージを発信することが、とても大きな意味があることを証明しているのだと思います。参加できてよかったです。

毎度お恥ずかしい話ですが、先週の月曜日、ケータイを水に濡らしてしまいました。わたしが車を洗うと、決まって雨が降るのですが、月曜日はまさかと思っていました。午前中福江に船で渡って後輩司祭たちとソフトボールの練習をして帰ってきていましたし、雨の気配は全くなかったので、給油をしてもらってから自分で車を洗い、直後にウォーキングに出発しました。

歩数を数えるためと、緊急連絡のために、わたしはケータイをポケットに入れて歩くのですが、10分も経たないうちにしとしと雨が降り出しました。それでもまぁ、何とか持ちこたえてくれるだろうと思っていたのですが、実際には雨が入り込んで濡れてしまい、臨終を迎えました。

しかたなく浦桑のドコモショップに相談に行ったのですが、浦桑に向かう間も、店で説明を受けている時も、「どうしてすぐに歩くのをやめて、ケータイを司祭館に置きに行かなかったのだろう」と、そのことが悔やまれて、店員の説明はまったくうわの空でした。

わたしはこれまで少なくとも3回、ケータイを水に濡らしてダメにしています。その苦い経験から学んで、今回はすぐにケータイを持ち帰るべきだったのです。めったに自分で洗わない車を、なぜあの時だけ洗ったのでしょうか。しかも玄関近くにある鉢植えにもたっぷり水をあげたりして、天気もビックリしたのかもしれません。本当に痛い目に遭いました。

わたしの苦い経験、今週の福音朗読にも繋がってくるのですが、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(12・40)とあるように、わたしたちのいつもの心がけを、わたしたちの主は突然確かめに来るのです。その人の心構えが不十分であれば、厳しい結果が待っています。今回わたしは、用意が足りなかったために、ケータイを失う結果になったのでした。

わたしたちの主である神は、時と場所を問わずに、わたしたちの用意が万全であるか、確かめに来ます。それは、わたしたちが主である神の僕だからです。わたしたちは、主である神に信頼され、留守を預かっている僕のような存在なので、時と場所を問わずに、わたしたちの心がけをご覧になるのです。

もしわたしたちが、主である神と何の関わりもなかったら、わたしたちに用意ができているか確かめたりはしないでしょう。わたしたちの用意が足りなくても、咎められることはないでしょう。厳しい言い方ですが、信頼もされていないから、要求されることもないということです。

わたしたちが主である神から託されているものは何でしょうか。それは神のいのちです。わたしたちは洗礼によって神のいのちを与えられ、この神のいのちの豊かさを失わないように、たえず用意しておくことを期待されている者です。わたしたちが預けられた神のいのちにいつどんなときでも備えができていれば、主である神はそれを確かめ、わたしたちをもてなしてくださいます。しかも、僕と主人の立場をすっかり入れ替えて、あたかもわたしたちに仕える僕であるかのように振る舞って、もてなしてくださるのです。

一つ、考えておくことがあります。「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(12・48)ということばです。これは、だれのことを指しているのでしょうか。

わたしたちは皆、「神のいのち」を託された僕ですが、ある人々は多くの神のいのちに関わっています。たとえば、洗礼の時に神のいのちがもたらされますので、洗礼に立ち会う司祭・代父母・両親などは自分に託された神のいのちのほかにも、多くを託されている人です。

ですから、司祭はもちろんのことですが、代父母の経験を何度か果たしている人、洗礼だけでなく堅信の秘跡も、神のいのちに関わる役目です。こうした役割を任された人は、「多く任された人」ではないでしょうか。

このような役割を与えられた人は、多くの神のいのちに配慮することを期待されるでしょう。「わたしは何人もの代父母を引き受けた。彼らが神のいのちをどのように扱うか、彼ら自身と一緒に責任がある。」こんな心構えで、毎日を生きて欲しいと思います。

ここからはついでの話ですが、今日夕方に、消防避難訓練をします。神がお住まいになる見える建物である教会堂が、火事や災難から免れるよう信徒皆が配慮すること。これも、「あなたがたも用意していなさい」に通じる行動です。今日の夕方5時から消防避難訓練をしますので、できるだけ多くの人が訓練に立ち会って欲しいと思います。

わたしたちは主である神の僕です。主がいつやって来ても、信頼されている僕として振る舞えるように、託された神のいのちにつねに配慮して日々過ごしましょう。そのための知恵を、ミサの中で願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
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