主日の福音13/07/28(No.661)
年間第17主日(ルカ11:1-13)
粘り強さがわたしたちには必要
いよいよ、夏休み中のこどもの大きな行事であるドッヂボール大会の日を迎えました。子どもたちには、わたしの釣りの経験を踏まえて、粘りの必要性を説きたいと思います。粘り強く、1点を取りにいく試合をしてください。これで、わたしの釣りの話ができる口実ができました。
金曜日に釣りに行きました。帰ってきた時間は昼2時頃だったと思います。金曜日の満潮の時間はおよそ11時で、満潮になる前の時間と、満潮から潮が下げ始める時間にイトヨリ釣りをしました。前半戦は思ったほど釣れなかったのですが、後半みるみる挽回して、イトヨリは全部で18匹釣りました。ボートを繋ぐ時に、ボートの係船場で海水浴していた子どもたちに魚を数えさせたので、間違いありません。
前半うまくいかなかった時、諦めてしまったり、いつまでもくよくよしていると、勝負に勝つことはできません。後半、きっとうまくいくと自分に言い聞かせて、みんなでそのことを確認して、後半戦に臨む。これが大切です。わたしも、後半戦はきっとうまくいくと自分に言い聞かせて、1匹ずつイトヨリを積み重ねていきました。
ドッヂボールの試合でも、1点が試合を分けます。1点差というのはちょっとした気持ちの持ちようでどちらのチームにも点数は転がります。その、ほんの僅かの差を勝ち取って決勝リーグに上がりましょう。あとで悔しがってもどうしようもないのですから、粘り強く、1点にこだわって、試合をものにして欲しいと思います。
さて福音朗読は、弟子たちがイエスに祈りを教えてくださいと願い、主の祈りを教えてもらうところから始まります。主の祈りを教えたイエスは引き続きたとえ話を弟子たちに語りました。続けて話されたのですから、主の祈りを解説するたとえだと考えてよいと思います。
真夜中に、友人がパンを三つ貸してくださいとお願いに来ました。友人は、願いがかなうまで粘り強く頼み込みました。この粘り強い態度が、主の祈りを唱える時に必要だと、イエスは言いたいのではないでしょうか。
「粘り強さ」というのはとても大切です。わたしは船釣り用の竿を2本持っていますが、イトヨリが釣れそうな場所に行って、魚がエサに食いつき、「よっしゃ」と思って合わせを入れ、リールを巻き初めてしばらくすると「スポッ」と魚が抜ける。最初のうちそういうことが何度かありました。
魚が必死に抵抗すると、竿に粘りがない場合、釣り逃がすことがあるわけです。わたしは竿の問題ではないかと思い、それ以後、もう少し粘りのある竿で釣るようにしたら、魚が抜けるミスがぐっと減りました。ガッチリ合わせたつもりでも、粘りのない竿ではみすみす取り逃がしてしまいます。もしそれでも釣り逃がすのであれば、腕のせいです。
主の祈りについても同じです。祈りの前半部分は御父に祈っていますが、たとえば「み国が来ますように」と祈りながら、この世界の状況がそれとはほど遠いと感じても、諦めてはいけないと思うのです。御父の思いが行き渡り、平和と愛に満ちた国は、わたしたちが粘り強く祈る限り、いつかその通りになります。今日祈ってかなわなかったから諦める、希望を捨てるというのは、主の祈りを教えたイエスの望みではないのです。
また、主の祈りの後半は自分を含む隣人すべてに対する願いですが、これこそ一つひとつが、粘り強く祈ることを必要としている祈りではないでしょうか。「毎日与えてください」と願う人は、毎日、粘り強く祈る必要があります。わたしたちの罪の赦し、また自分に負い目のある人のゆるし、誘惑から逃れること。どれも、うまくいかなかった瞬間からつい諦めてしまおう、希望しても無駄だと考えがちです。
すぐに答えが返ってこない長いトンネルのような道でも、粘り強く努力する、粘り強く願い求めるその先にしか、答えはないと思うのです。「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」というイエスの勧めは、粘り強く願い、簡単に諦めるなということをとても分かりやすく教えているのではないでしょうか。
ドッヂボールの試合に出る子どもたち。1点差で勝つか負けるかは、数秒の違い、場合によっては1秒で結果が変わるかもしれません。1秒で相手を1人倒すとか、最後の1秒で球をよけて内野の人数を減らさなかったとか、そういうほんの数秒で決まるかもしれません。
本当に粘り強く、最後の1秒まで、自分のしなければならないことを努力してください。上級生は相手を1人でも多く減らす。下級生は最後まで内野に残る。すると、すばらしい結果がその先にあると思います。
主の祈りは、粘り強く祈り求めるだけの十分な価値があります。御父は願い求めるわたしたちに聖霊を与えてくださるからです。聖霊は、被造物のわたしたちが本来願っても手に入らない賜物です。被造物のわたしたちが、聖霊である神さまをくださいと願っているのですから、本来ありえない話です。
けれども神は、わたしたちの粘り強い祈りを聞いてくださり、造られた者である人間に、聖霊を与えてくださいます。人間は聖霊の賜物を受け取るには不十分な存在ですが、神の溢れる思いは、不足のあるわたしたちを覆って余り有る恵みをくださるのです。粘り強く祈り求める十分な理由があります。
そこで最後に、わたしたちの日頃の祈りが、どのような祈りになっているか振り返りましょう。粘り強い祈りになっているでしょうか。粘りのない素材は、力が加わるとポキッと折れてしまいます。粘りがないために、祈る心が折れたりしていないでしょうか。もう一度、粘り強く祈ることを今週学びましょう。そして、わたしたちの粘り強い祈りに必ず答えてくださる神に信頼して、今週一週間に入ることにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(ルカ12:13-21)
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