主日の福音13/06/30(No.657)
年間第13主日(ルカ9:51-62)
あなたはいつ決意を固めますか
棒アイスで1000円当たりました。当たったのは、暑くなってきて賄いのシスターが気を利かせて買ってくれたアイスです。そのアイスで、1000円分のクオカードが当たったのです。
この話には前置きがあります。あるときシスターから「冷凍庫にアイスが入っているのでどうぞ食べてください」と勧められたので冷凍庫を空けましたら、なぜか袋の中でアイスがグニャグニャになっていたのです。
以前から気にはなっていたのですが、まれに冷凍庫引き出しのレールに氷が付くことがありまして、きちんと閉まらないのです。今回もそうだったのでしょう。アイスがちゃんと凍らず、中で溶けていたのだと思います。「これ、溶けてグニャグニャになってるよ。食べられないから処分してね」するとシスターは「もう一度凍らせましょう。そうすればきっと食べられます」と言います。
たとえ凍っても、一度溶けたものですからもとの形にはなりません。あまり乗り気ではありませんでしたが、それでも甘いものが欲しくなってあとで袋を空けてみたら、案の定グチャグチャのままもう一度固まっていました。
まぁそれでも、口に入れればアイスの味はします。そうして食べ終わってからビックリです。ハシに、「1000円当たり」と書いてあるではないですか。危うくゴミ箱行きになる運命だったのが、1000円儲けさせてくれたのです。ありがたいことです。何事も、よく人の話を聞くことが大事だなぁと、今回の件で学びました。
日本の教会に喜ばしいニュースが入ってきました。教皇さまは、札幌教区に新しい司教様を任命なさったのです。6月30日付のカトリック新聞の一面に新司教さまの記事が掲載されていました。実は同じ新聞に、中田神父も福音の解説をお願いされて、記事になりましたよとお知らせしたかったのですが、わたしのニュースは札幌の司教様のニュースで吹っ飛んでしまいました。
カトリック新聞編集部からの原稿依頼は、本音はお断りしたかったのです。いろいろ断りたい理由があったからです。わたしはここ10年ほどすべての日曜日の説教をブログに掲載しているので、わざわざカトリック新聞に載せる必要を感じていません。ほかにも、カトリック新聞はほとんどすべての長崎教区司祭に読んでおられます。わたしが福音解説をするよりも、もっとふさわしい人が何人もいます。こうした理由で、引き受けたくなかったのです。
すると、編集部の人はこう言いました。「神父さまのブログは承知しています。でもブログの読者は200人でしょう?カトリック新聞は、1万5千人です。神父さまの福音解説は、1万5千人の読者にも必要ではないでしょうか?」それで断りきれなくなって、引き受けたのでした。
せっかく書くので、「わたしはミサ中の説教をこう理解している」ということと、「今週の福音の学び」この2点を与えられた字数で書いてみました。まず、ミサ中の説教をどう理解しているかですが、司祭の説教は、福音朗読箇所の読書感想文であってはいけないと思います。
「わたしはこう思う」という説教も、それはその司祭の「わたしはこう生きようと思う」という姿勢であるべきだし、説教を聞く人にとっては「ではわたしたちはこう生きていこう」という招きであるべきです。しかも、「イエスに倣って、こう生きようと思う」という説教でなければ、聞く人の心に届かないと思うのです。
次に福音の学びですが、今週の福音の冒頭、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。いよいよ、イエスのこの地上での歩みが完成する場所へと近づいています。エルサレム、それは三度にわたってイエスの死と復活が予告された場所、復活したイエスが再び弟子たちと出会う場所、聖霊が注がれて、ここから福音があまねく宣べ伝えられる場所です。イエスのすべての歩みがそこへと秩序づけられる場所へ、いよいよ向かわれるのです。
当然、イエスを信じる人すべてに、イエスは弟子としての覚悟をお求めになります。サマリアの村人は、イエスを歓迎せず、弟子としての準備がととのっていないことをさらけ出してしまいます。「あなたがおいでになるところなら、どこへでも従って参ります」と言う人には、その覚悟が自分の身を横たえる場所、つまり「枕」すら取り上げられても変わらないか、と問われます。
別の人は「主よ、まず父を葬りに行かせてください」と懇願しました。ですがたとえ「父母を敬いなさい」という掟でも、イエスに従うことより優先させてはいけないのです。同じように「家族とのいとまごい」すら、イエスに従う弟子の覚悟を鈍らせてはいけないのです。大変厳しい要求のように思えるかもしれませんが、わたしたちに最初に福音を知らせにきてくれた数えきれない宣教師が、イエスの求めに喜んで応え、身をささげてくださいました。
では振り返って、わたしたちはいつ、「エルサレムに向かう決意を固める」すなわちそれぞれの場所でイエスの弟子として生きる決意を固めるのでしょうか。「生涯互いに、愛と忠実を尽くすことを誓います」と契約を交わした夫婦は、いつその契約の完成のためにいのちをかけるのでしょうか。「わたしとわたしの後継者に、尊敬と従順を約束しますか」「約束いたします」と公言した司祭は、いつその言葉のゆえにこの世に死ぬことができるでしょうか。「清貧・貞潔・従順」を神に誓った修道者は、いつその三誓願が束縛ではなく自由と感じられるようになるのでしょうか。
イエスは、だれも決意を固められずにいたその時に、自ら先頭に立ってエルサレムに向かう決意を固められました。わたしたちの模範となるためです。わたしたちがイエスの後について、イエスが歩いたように歩くことができるためにです。もう一度尋ねます。わたしたちはいつ決意を固めるのですか?もちろん「今でしょ。」
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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20)
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