主日の福音13/06/23(No.656)
年間第12主日(ルカ9:18-24)
「神からのメシアを知る道」がある

運転ルールを守らないのは中田神父だけかと思いましたが、どうやらそうでもないようです。わたしがいつだったか車を出して福見に行こうとした時、教会前の十字路で、浜串に帰って来るお母さんの運転する車が十字路を斜め45度に横切っていきました。それはつまり、一時停止をせず、直角に曲がらずに、けっこうなスピードで斜めに横切ったということです。

わたしは車庫から出たばかりだったので、速度は出ていませんでしたが、怖いなぁと感じました。わたし自身もあちこちで他の車に迷惑をかけているのであまり言えた義理ではありませんが、心の中で「事故起こさないでね・・・救急車で運ばれたりして、わたしの仕事を増やさないでね」と祈りました。けがなくて、良かったです。

あちこちで、「お腹出てきたね」と言われるようになりました。「最近、走ってないの?」と遠回しに言う人もいます。正直、秋口にならないと走る理由が見つからないので走っておりませんが、まだイトヨリのシーズンに入っていないことだし、時間の無駄遣いをするくらいなら、走ったほうがよいかもしれません。心を入れ替えて、走ってみようかと思います。

今週の福音朗読を読み味わうのに、直前の箇所を頭に置いておくと役に立つと思います。ルカ福音書の9章が選ばれていますが、9章の始めで、ヘロデが、イエスの噂を聞いて戸惑う場面があります。「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」(9・9)

ヘロデはイエスを信じることはありませんでしたが、イエスが弟子たちに問いかけた「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(9・20)ことばの前に、図らずも立たされていることになります。ユダヤの王ヘロデがイエスを「何者だろう」と不思議に思ったということは、ユダヤの国民すべてが、イエスに関心を持つきっかけになったでしょう。

そんな中で、「五千人に食べ物を与える」奇跡が取り上げられ、今週の朗読箇所へと続いているのです。ヘロデ王が、イエスを「何者だろう」と思っている。そんな中で、イエスは五千人に食べ物を与えてくださる。それを目の前で見た弟子たちも、当然「このかたは何者だろう」と考えたはずです。

イエスは、これらの出来事、つまりヘロデの当惑、パンの奇跡を見たあとで、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちに問いかけます。これまでよりも適切な答えをイエスが期待していたとしても不思議ではありません。そこでペトロが代表して「神からのメシアです。」(9・20)と答えました。

ペトロの答えは、十分なものだったのでしょうか。ペトロは適切な答えを言ったのですが、ペトロ自身には、言葉の重さがどれほどのものであったかが理解できていませんでした。実際イエスは、弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じておられます(21節参照)。

言葉の重みを分かってなくても、答えは立派です。ただ、いつかはその言葉の重みを理解しなければなりません。イエスは、「神からのメシア」が「苦しむメシア」であることを、正しく理解する道も示してくださいました。それが、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9・23)という道でした。

この道を、何の疑いもなく歩んでいけるなら、弟子たちに沈黙を守るように戒めたりはしなかったでしょう。ですが、「自分を捨てる」とか「十字架を背負って」といった生き方は、喜んでは引き受けられない生き方です。難しい道ですが、この道を通らなければ、「神からのメシア」「苦しむメシア」を理解することはできないのです。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(9・22)「必ず・・・ことになっている。」これは神のご計画です。人間の、なかなか当てにならない計画とは比べものにならない確かな計画です。

わたしたちは、イエスに従う道を選ぶか、拒むかを決めなければなりません。「苦しむメシア」が苦しむ理由は、ほかでもない、わたしたちのためです。わたしたちのためにイエスが苦しむことを、わたしたちが信じるために、わたしたちも日々、自分の十字架を背負って、イエスに従うのです。

もちろん、わたしたちは自由に物事を選ぶ自由意志を与えられています。ですから、自分の十字架を避けて通ることも可能です。しかしそれは、「苦しむイエス」を信じないことになります。「神からのメシア」が示す神秘に背を向けることになります。

イエスが示す「神からのメシア」への信仰を、ペトロは表明しました。その言葉の重みも、わたしたちが理解するために、今日の自分の十字架を背負うことにしましょう。報いが欲しいから自分の十字架を背負うのではなく、十字架を担うことに意味があり、イエスがどなたであるかを知る道があることを信じましょう。十字架を愛するための恵みを、このミサで願うことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(ルカ9:51-62)
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