主日の福音13/06/16(No.655)
年間第11主日(ルカ7:36-8:3)
神の全能の力は弱さの中に現れる

木曜日に、少し怖い思いをしました(イノシシと納骨)。福見の曽山という墓地で納骨を頼まれていて、祭服を着て墓地に登り、納骨の祈りを済ませてきました。帰り道、まだ雨のあとだから足もとに気をつけてと言われたその直後に足をすべらせてしまい、石段を三段くらいすべって、尻もちと、手を擦り剥き、小指の爪が割れていました。

側にいた参加者が「キャー」と大声を出しまして、祭服に泥が付いてしまいましたが、幸いにわたしは起き上がることができまして、今こうして報告することができています。あとで、肩胛骨あたりがやけにひりひりするので確かめましたら、そこも擦り剥いていました。

今になって考えると、よくあれくらいの擦り傷で済んだなぁと胸を撫で下ろしています。頭を打ったり、首を痛めたりしていてもおかしくない状況でしたから、神さまに感謝しなければと思います。ついでの話ですが、少し寄付をしますので、横道に入る手前の石段に、手摺りを付けてください。次に納骨をお願いされた時、安心して出掛けたいです。

さて、今週の福音朗読には、イエスが罪深い女をゆるすという場面が選ばれています。16日(日)の午後に、わたしは信仰養成講座の講師を頼まれているのですが、講話のために準備していたことが今週の朗読された福音の学びと結びついたので、講話の紹介も兼ねて話したいと思います。

午後からの信仰養成講座でわたしが担当するのは、信仰宣言の中の「父なる神」についてです。わたしたちは信仰を言い表すにあたって、この「父なる神を信じる」ということが何より大切になります。わたしたちが信じようとすることがらが、すべて父なる神を信じることに深く関わっているからです。

この父なる神についてわたしたちが宣言するのは、「天地の創造主」という信仰と、「全能の父である神」という信仰です。わたしたちの多くは、神さまの特徴について次のようなことを習い覚えたと思います。「神は全知全能永遠で限りなく尊く、また慈愛深いお方です。」

ところで、わたしたちが唱える信仰宣言の中で、父なる神について、「全知全能永遠で限りなく尊く、また慈愛深い」とすべてを並べて宣言しているわけではありません。ただ「全能である」そのことだけを取り出して宣言しています。ということは、もっとも古いとされる使徒信条や、ニケア・コンスタンチノープル信条が固まった時代には、「全能の神」ということがとくに重要視されていたということなのでしょう。

そして、この「全能の神」という性質を、今週の福音朗読を読み解く鍵に使いたいのです。さてカトリックの教えを学ぶ規範版として福者ヨハネ・パウロ二世が最後に手掛けたのが「カトリック教会のカテキズム」という書物です。そして、最近この本を要約したものが出まして、この中に「全能の神」の性質がとくに現れるのは、「無からの世界の創造」「愛による人間の創造」において現れるとあり、さらに、「御子の受肉と復活」「人を神の養子とするたまものにおいて」また「罪のゆるしにおいて」現れることが説明されています。

今週の「罪深い女をゆるす」という場面は、まさに、罪のゆるしにおいて神の全能が発揮された特徴的な場面です。「イエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(ルカ7・38)この女性は、あわれみがもっとも必要な状態にありました。

ところが、この場面で女性にあわれみをかける人はだれもいません。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(7・39)ファリサイ派の人の心の声は、イエスの弟子たちの声も代表していたかもしれません。みなが、女性を罪人として排除しようとしていたのです。

ここに、神の全能が働きます。神お一人しか、この女性にあわれみをかけることはできませんでした。それは、神の全能の力でしか、この女性の罪を覆うことはできなかったということです。イエスがパウロに語った「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(二コリント12・9)ということばの通りです。

もしわたしたちが、今週の福音朗読を通して「神の全能の力は、弱さの中で働く。罪人のゆるしの中で働く」ということを信じるとき、過去に起こった出来事だけに目を向けてはいけないと思います。むしろ、神の全能の力は、今この時代に、わたしたちの今の生活にも発揮されるのだと信じる必要があるのです。

イエスは、かつてファリサイ派の人の招待した家で全能の力を示してくださったように、わたしたちの家庭にも、わたしたちの小教区にも、わたしたちの社会にも、罪のゆるしを通して神の全能の力を示し、罪人に近づいてくださいます。わたしたちは今日の物語のファリサイ派の人のように罪人を排除するのか、罪人をゆるして受け入れるのか、どちらか選ばなければなりません。

この21世紀においても、わたしたちは神の子イエス・キリストの「全能の力」を信じる人でありたいと思います。イエスに神としての全能の力を信じなければ、「あなたの罪は赦された」ということばも、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」ということばも聞くことはできません。全能の力を信じなければ、2千年前と何も変わらないことになります。

全能の神が、弱さの中に、罪の中に、力を発揮してくださると信じましょう。信じたことを、生活の中で声にしてみましょう。全能の神の力を信じるとき、わたしたちは変えることのできなかった社会を変えることができるのだと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第12主日
(ルカ9:18-24)
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