主日の福音13/06/09(No.654)
年間第10主日(ルカ7:11-17)
キリスト者は御聖体のイエスにいのちの根拠をもつ

今年度の教区司祭黙想会に参加してきました。約一週間にわたる黙想会の最初のほうは、よく説教師の講話に集中して耳を傾けることができたのですが、終わりのほうになると小教区の皆さんのことがだんだん気になってきて、浮き足立ってしまいました。

今週末には浜串教会の旧教会跡地で記念碑の祝別とミサを予定していましたし、福見教会の人で病者の塗油をお願いされている人のことも気になっていました。そのほかにも船舶検査の係官から連絡が入ったりして、だんだん帰ってからのことが頭の中で膨らんでいたのです。

それでも、今年の説教師から持ち帰ることのできた収穫はたくさんありました。その中から、6回目の説教で話された「御聖体についての講話」を紹介しながら、今週の福音に結びつけていきたいと思います。

御聖体の秘跡は、皆さんご存じのようにイエスが最後の晩餐の席で弟子たちを目の前にして制定されたものです。この最後の晩餐の雰囲気を、説教師の塩谷神父さまは「この上なく愛し抜かれた弟子たちに最後に残した形見、それが御聖体である」と説明してくださいました。

イエスと弟子たちは、3年間の宣教生活の間、イエスのことばによれば、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(ルカ9・58)という生活をしていて、この世的には何も残せる財産は持ち合わせていませんでした。

イエスもそのことは十分承知していたでしょう。そのような中で、イエスが弟子たちに残せる形見、財産は、イエスご自身だったわけです。もはや弟子たちに残せる形見は、ご自身のからだしかなかったのです。

この雰囲気を感じ取りながら、わたしたち司祭はミサをささげていきたい。説教師の神父さまはそうわたしたちに呼びかけました。「みな、これを取って食べなさい。これは、あなたがたのために渡されるわたしのからだである。」

別れの間際に、形見を残しておきたい。しかしイエスには、物質的な形見となるようなものは何もない。ただあるのは、ご自分のからだのみ。このわたしのからだを、あなたたちに形見として残そう。そんな思いを、司祭たちもミサの聖変化の時に感じ取ってほしい。説教師が最後の晩餐の場面を深く理解していることが、この日の講話から十分伝わりました。

黙想会のこの学びを、今週の福音朗読を読み解くきっかけにしたいと思います。選ばれた箇所は、「やもめの息子を生き返らせる」という場面でした。すでにやもめとして登場する母親は、今度は一人息子まで失うことになります。男性が絶対的に優位だった2千年前のユダヤ社会の中にあって、頼るべきものをすべて失った。それがこのやもめの姿でした。

イエスは、すべての希望を失っている親子に近づきます。イエスは若者を生き返らせ、母親に返してくださいました。本来いのちに満ちあふれているはずの若者が、いのちを絶たれてしまっている。この場面でイエスが与えることができるのは、この世的な何かではなく、やはりイエスご自身のいのちだったのではないでしょうか。いのちの与え主である神として、若者のいのちを取り戻してくださったのです。

今ここで泣いている母親にとって、「もう泣かなくともよい」と言うことができるのは、若者のいのちを取り戻せるお方しかいません。母親はきっと、一人息子のいのちの他に何も望みはなかったからです。イエスは、母親の「これしかない」という望みに答えてくださいました。

実は、イエスはその当時も今も、人間の「これしかない」という願いに応えてくださるお方なのだと思います。わたしたちキリスト信者は、この世にすべての希望を置きません。キリストに希望を置いて、この世を生きています。それは、この世にすべての希望を置く人からすれば滑稽な姿かも知れません。

この世にすべての希望を置く人に対するわたしたちの答えはこうです。「わたしたちの希望は、イエスにしかありません。」御聖体のうちにおられるイエスにしか、この世にすべての希望を置かない生き方を説明できる根拠はないのです。

司祭・修道者は、結婚生活などに代表されるようなこの世のパートナーをもちません。お互いに助け合う生き方である結婚生活は本当にすばらしいわけですから、それを手放して生きることは、司祭・修道者の生き方に縁のない人々にとっては滑稽に見えるかも知れません。

司祭・修道者にとって、自分たちの生き方に価値を与えるのは御聖体のイエスさま、これしかありません。単に独身生活を保って社会に貢献する生き方を目指すのであれば、司祭・修道者になる必要などどこにもありません。御聖体のイエスしか、司祭・修道者の生き方を説明できる根拠はないのです。

キリスト者の生き方は、日本の中にあってたった1%しかいない人々の生き方です。99%の人々にとっては滑稽な生き方かも知れません。しかし、わたしたちがこの生き方に絶対の自信を持って生きるなら、パン種が練り粉全体を発酵させるように、日本の社会に変化をもたらすことができるのではないでしょうか。

そのためには、「わたしたちが1%しかいない人々の生き方ができる根拠は、御聖体のイエスにしかない。」そう固く信じて、生きていく必要があります。

今日のミサでみことばと聖体に養われながら、「わたしたちが確信を持てる根拠は、御聖体のイエスにしかない」と、信仰を言い表すことにしましょう。わたしたちキリスト信者の生き方が、日本に住む多くの人の生き方に響きますようにと、ミサの中で恵みを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第11主日
(ルカ7:36-8:3)
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