主日の福音13/05/12(No.650)
主の昇天(ルカ24:46-53)
橋渡しであり、別れではない
金曜日に、久しぶりに伊王島時代の賄いさんが五島に遊びに来てくれて、いろいろ伊王島のことやら、こちらで行われた高井旅五十周年、福見百周年を終えた教会の案内をしたりしまして、賑わいました。伊王島時代によく賄いさんをからかっては面白がっていましたが(中略)。
金曜日だったので夜には「ミニバレーの様子も見にいらっしゃい」と誘いましたら、点数の掲示板のところに座って観ていたのが、いつの間にか試合の解説みたいにしゃべるしゃべる、わたしがミスをしたとき「へたくそ」とまで言われました。相変わらず面白い人でした。
懐かしい伊王島も、対岸の香焼と橋が架かってからすっかり様子が変わったらしく、昔のようなのんびりした島ではなくなっているようです。橋が架かる経験は、過去に西海市大島町の太田尾教会で経験しました。それまで大司教館に出かけたり佐世保に出たりしたときなど、航送船と言って、車を積む船で対岸の西彼町から戻っていました。
それが、大島大橋が架かってからは、のんびりした島に大量に本土の人と車が入ってきて、雰囲気が変わったのを覚えています。便利ではありましたが、島の静けさや子どもたちの純粋さを守ってあげるためには、橋が架かる前のままがよかったかもしれないなぁと当時思いました。
もちろん、橋が架かるということは大きな恩恵を受ける出来事です。対岸の人々といつでも、どこででも会うことができます。対岸でしか受けられない恩恵を、橋を通して受けることができるようになります。橋が架かっていなければ、どんなに目の前に見えている対岸の人とも、交流はできないわけです。
さて、今日は主の昇天を祝っています。わたしは、主の昇天を黙想するのに、この「橋を架ける」「橋渡しをする」という捉え方が、非常に役に立つのではないかと思いました。イエスがこの世を去って御父のもとへ行くと予告したとき、弟子たちはどうしてもイエスの言葉を肯定的に受け取ることができませんでした。
弟子たちが不安がっている様子は、ヨハネ福音書では16章に3度現れています。「わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」(16・6)「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」(16・20)「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」(16・22)
弟子たちの不安は、もっともなことです。しかし、わたしが今日皆さんにたとえとして紹介している「橋を架ける」という考えでイエスの御昇天を見るとき、違った受け止めかたができるのではないでしょうか。イエスが天に昇られるのは、この世界と、御父のおられる天の国との間に橋を架けるため、架け橋となられるためなのです。
イエスが橋を架けてくださったのであれば、この世を去ることは悲しい出来事にはなりません。イエスという架け橋のおかげで、わたしたちの世界は神の国と繋がることになるからです。しかも、わたしたちのほうからは神の国に橋を架けることは不可能で、神がお遣わしくださった御子イエスによって初めて神の国への道ができたのです。
先に話したように、橋が架けられていなければ、対岸にいる人たちとは交わることはできません。橋を架けてくれるだれかがいること、橋渡しになってくれるだれかがいることは、本当にありがたいことです。イエスは天に昇り、わたしたちの国と神の国に橋を架けてくださいました。このように考えるとき、イエスが天に昇られたことは、はっきり喜びとして理解できるようになり、「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16・22)のです。
イエスが天に昇り、この世界と神の国に橋を架けてくださったのですから、わたしたちはイエスというその道を歩むことを当然期待されています。イエスが御父のもとから遣わされてわたしたちに道を示し、みずからが道となって、御父の国への扉を開いてくださいました。イエスという道を歩むとは、イエスが示された生き方に倣うことです。イエスのことばと行いを、わたしたちが歩んで体験してみることです。
主の昇天の喜びを、弟子たちは「たえず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(24・53)とあります。神殿は、この世での神とわたしたちとの交わりの場です。神の国とこの世との架け橋であるイエスを、わたしたちの境内でほめたたえましょう。天に昇られたイエスは、御父のもとでいつもわたしたちのことを心に留めておられ、まもなく聖霊を注いでわたしたちを強めてくださいます。
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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ14:15-16,23b-26)
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