主日の福音13/04/07(No.645
神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)
イエスが真ん中におられることを忘れない

神のいつくしみの主日を迎えました。神がわたしたちに示してくださるいつくしみを、選ばれた朗読福音を通して学ぶことにいたしましょう。

復活したイエスが、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけている弟子たちに現れます。しかも、その現れ方を「そこへ、イエスが来て真ん中にたった」と書き残しています。

「イエスが弟子たちの真ん中にお立ちになる」この様子は、2度繰り返されています。最初は、トマスがいない場面です。2度目は、トマスもその場にいる場面です。2度とも、同じような現れ方をしたことに、わたしは何かのお考えがあるように思います。

こんなことを考えました。復活したイエスは、信じる人々の真ん中に立つようにして現れてくださるということです。恐れを抱き、人々から身を隠しているときにも、さらにその上に、最初の出現に立ち会えず、深く気落ちしているときにも、復活したイエスは人々の真ん中に、平和をもたらすためにおいでくださるということです。

この出来事は、わたしたちの信仰生活にもつながっています。わたしたちも、イエス・キリストを信じてその信仰を土台にして歩んでいる者です。けれども、実際の教会生活は、理想ばかりの生活ではありません。弱さを持った人間が、信仰生活をしているわけです。

教会のためにだれでも協力してくれてよさそうなものだけれども、わたしを当てにしないでくださいとあからさまに主張する人もいます。自分たちに有利になるように流れを誘導して、決して自分ばかり負担が増えないように動き回る人もいます。そんな嫌気のするような面を見て、何が信仰だ、何がカトリックだとガッカリする人もいるでしょう。

けれども、そんな嫌な思いをしている人の中にも、イエスは人々の真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と声をかけてくださるのです。もしそこに、深く傷ついている人がいたとしても、イエスは何度でも現れて、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけてくださいます。

もしわたしたちが、イエスはたしかに復活されたと信じ、希望しているなら、復活したイエスはわたしたち信じる人々の真ん中に立ってくださいます。イエスは初めから、常にそのようなお方だからです。真ん中に立ち、恐れを取り除き、平和をもたらしてくださるお方です。

もともと、なぜ弟子たちはユダヤ人を恐れていたのでしょうか。自分たちも捕まってはりつけにされるから、恐れていたのでしょうか。わたしは、それだけではないと思っています。少なくともペトロは、同じヨハネ福音書によると「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13・37)とさえ言った人物です。ペトロの言葉が口から出任せであったとは思えません。

もしかしたら、自分たちでは気づかない何かがあったかも知れません。弟子たちは心の支えを失っていました。心の支えがあるうちは、命を捨てる覚悟だったでしょうが、その支えがなくなって、恐くなったのかもしれません。

今は、復活したイエスが自分たちの真ん中に立っておられるのですから、恐れる必要が無くなりました。イエスの出現を目の当たりにし、恐れを取り除いていただき、平和を取り戻した弟子たちは、後に復活の証人となっていきます。

さて、今日わたしたちの教会は、幼子の洗礼式を行うこととなりました。今ご夫婦にとって、お兄ちゃんお姉ちゃんにとって、新しく迎えた幼子は家族の中心にいることでしょう。どうぞ、幼子の洗礼を通して、イエスが真ん中に立っているとき、家庭に平和が訪れることを学んで欲しいと思います。

そして、新しいお子さんを含め、家族が外に向かっていくとき、活動の源・土台になるのは真ん中におられる復活したイエスであることを忘れないでほしいと思います。わたしたち教会家族も、幼子の洗礼を通して、神の恵みが生活の真ん中にいつもあるなら、教会家族に平和が訪れることを学ぶひと時にしたいと思います。

それでは、引き続き洗礼式に移りましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ヨハネ12:1-19)
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