主日の福音13/03/30(No.643)
復活徹夜祭(ルカ24:1-12)
復活したイエスに出会えるのは「捜す人」

主の復活、おめでとうございます。聖週間が始まる頃から、まったく声が出なくなり、復活徹夜祭の復活賛歌はどうなることかと思っていました(この原稿は24日に作成)。わたしの声も復活してハレルヤです。

さて今年の復活の喜びを、イエスを捜す人に光を当てて考えたいと思います。まず婦人たちが、週初めの日の明け方早く、墓に出かけました。けれど墓にはイエスの遺体が見あたらなかったとあります。彼女たちは復活したイエスに会いに行ったのではありませんが、イエスを捜しに行ったのはたしかです。

そこへ輝く衣を着た二人の人が現れ、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」(24・5)と声をかけられました。イエスを捜しているのはよろしいが、生きておられる方を死者の中に捜してはいけないと言うのです。この場面も「イエスを捜す人」に大事な意味が込められていることを感じさせます。

婦人たちは墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせました。婦人たちの話を聞いた弟子たちは意見が分かれます。彼女たちの話をたわ言のように思った仲間と、ペトロのように婦人たちの話に動かされてイエスを捜しに行く人たちです。

わたしはこの「捜しに行く」という態度が、復活したイエスと出会うために大切なことだと考えます。与えられた朗読箇所の中では、婦人たちも、ペトロも、墓にイエスを捜しに行きましたが結局は見つけることができませんでした。

それでも、捜すことは大切なのだと思います。捜す人がいて、復活したイエスに出会うことができるからです。もしだれも捜さなかったら、つまり婦人たちも捜しに行かない、弟子たちもだれも捜しに行かなかったとしたら、イエスが復活したにもかかわらず、誰もイエスと出会わなかったかもしれません。

日本の教会はこの点で歴史の中で大きな体験をしました。250年近く司祭がいない時代を信徒だけで信仰を守り抜き、プチジャン神父が大浦に派遣されたとき、イザベリナ杉本ゆりほか数名が、司祭を捜しに行ったのです。

捜しに行ったから、プチジャン神父と出会うことができました。捜しに行ったから、潜伏していたキリシタンは復活し、神の民の交わりを取り戻したのです。

一方で、司祭を捜しに行かなかった人々もいました。捜しに行かなかったのか、見つけることができなかったのかは分かりませんが、捜すことをやめたために、復活の喜びを味わうことなく、今もひそかな信仰を守り続けています。これは日本教会の歴史に刻まれた悲しい一頁です。

わたしたちの生活に踏み込んで考えてみましょう。わたしたちも、復活したイエスに出会うために、「捜す人」でなければなりません。生活と信仰の結びつきを、自分に備わっている才能と信仰の証しとの接点を、教育や価値観と信者としての生き方を。こうした現実社会と信仰の接点で、イエスを捜し求める人でなければ、復活したイエスに出会うことはないのです。

今の生活があるのはだれのおかげだろうか。今の生活を、だれに一番感謝すべきだろうか。そういうときに、捜し求めていって復活したイエスのおかげだ、イエスにいちばん感謝すべきだとの答えにたどり着くでしょうか。

わたしの才能や特徴は、聖書の登場人物ではあの人に似ているかも知れない。聖書の中でその人はこんな働きをしたのだから、わたしも教会の中で同じようにイエスのお役に立てるのではないだろうか。才能や特徴からイエスを捜し求めることもできます。

日常生活のまっただ中で、わたしたちはイエスを捜し求める人になることができます。こうして、頭の中だけでなく、生活の中でイエスを捜し求めるなら、わたしたちは復活したイエスと出会うでしょう。復活したイエスと出会い、喜びに満たされる生活に入っていく。そのための恵みを、今日のミサの中で求めましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
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