主日の福音13/03/29(No.642)
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
血と水が流れ、いのちを与えてくださった

聖木曜日に、イエスが弟子たちに示した愛を、「御自分を裂いて与える愛」と話しましたが、今十字架上でわたしたちのためにいのちをささげてくださったイエスこそ、「御自分を裂いて与える愛」そのものです。

十字架にはりつけにされたイエスは「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(19・34)とあるように、引き裂かれ、血と水とが流れ出て、全人類のために与えられたのです。

イエスは別のところでこう言っています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)しかもその与えかたは、「御自分を裂いて与える」という痛みを伴うものでした。

人類を救うために、痛みを伴わないで御自分を与え、救いのわざを完成することは可能だったのでしょうか。わたしは、痛みを伴わない愛は考えられなかったのではないかと思います。

今日の福音朗読の中に、イエスを知らないと言うペトロが登場します。不正な裁判を起こした宗教指導者たちがいます。また兵士は平手でイエスを打ち、ピラトはイエスを死刑に引き渡す裁判に加担し、その上イエスを鞭で打たせました。槍で、イエスのわき腹を刺した兵士もいます。

この人々をゆるし、救いに導くためには、痛みを伴わない愛は考えられなかったはずです。イエスはこうして、どんな人をも救うには、御自分を引き裂いて与える愛、痛みを伴う愛が必要だったのです。

わたしたちは、イエスの愛によって救われました。御自分を裂いて与える愛によって、いのちが繋がりました。そうであるなら、わたしたちは「自分を裂いて与える愛」を学ぶ必要があると思います。痛みを伴う愛を避けては通れないと思います。

では実際の生活はどうでしょうか。痛みを伴うのはゴメンだ。自分を裂いて与えるのは勘弁して欲しい。わたしたちは自分を痛めてまでは、愛を分け合えない弱い存在ではないでしょうか。

わたしたちは、自分を裂いて与える愛にたどり着いていません。そうであるなら、せめて御自分を裂いて与えてくださったイエスに、心からの礼拝をささげましょう。ゴルゴタの中央にあるいのちの木から、イエスが御自分を裂いて与えてくださったので、わたしたちは罪がゆるされ、救われたのです。

このあと、十字架の礼拝をいたします。人間の罪をあがなうために、痛みを伴う愛をなかなか実行できないわたしたちの救いのために、イエスは十字架にはりつけにされました。心からの礼拝をささげて、イエスの前にへりくだりましょう。せめて、わたしたちの心を裂いて、イエスにすべてを委ねましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(ルカ24:1-12)
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