主日の福音13/03/24(No.640)
受難の主日(ルカ23:1-49)
わたしたちは園の中央にいのちの木をもっている

長い朗読でした。簡単な説教でこの受難の週を過ごす道案内としたいと思います。イエスは息を引き取る直前、犯罪人の一人に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)と言われました。この点を取り上げたいと思います。

「楽園」は旧約聖書ではどのように描かれているでしょうか。2つのことが思い出されます。園の中央にはいのちの木があるということと、楽園は神によって守られている場所で、楽園を追われたアダムとエワは、神の保護を失ってしまったのでした。

すると、「楽園にいる」という約束は、十字架にはりつけにされているイエスにおいて、すでに実現しているのではないでしょうか。つまり回心した犯罪人がいるゴルゴタの丘の中央には、いのちをもたらしてくれた十字架の木が立てられています。イエスはその十字架にはりつけにされ、犯罪人にゆるしを与えて、神の見守りがそばを離れないことを約束してくださいました。

ここに、創世記がおぼろげに描いた楽園が実現しています。あとは、ゴルゴタの場面をわたしたちが「楽園」と理解できるかどうかです。これから一週間を、イエスが十字架上で成し遂げたわざが、わたしたちに必要な楽園なのだと理解するための歩みといたしましょう。

さて、楽園の中央にいのちの木があるのですから、イエスがはりつけにされた十字架はいのちの木であるはずです。では園の中央の木の実は何でしょうか。それはイエス・キリストです。創世記の物語では食べてはいけない、触れてもいけないとされていましたが、新しい楽園の中央にある木の実は、わたしたちの食べ物となってくださいました。何を食べさせてくださるのでしょうか。

2つ、示してみたいと思います。1つは、苦難をその身に背負う僕の姿です。イエスは、だれも背負うことのできない全人類の罪を背負い、その罪をゆるしてくださいました。

わたしたちはイエスに倣うことでイエスの模範を食べ物とすることができます。すなわち、毎日の苦難を精一杯受け止めることで、イエスを信じる者が放つ良い香りを、周りの人に示すのです。

イエスがくださるもう1つの実りは、復活の栄光です。この実りは、今はまだ味わうことができません。けれども、十字架を通らなければ、復活の実りはもたらされないのです。この一週間、イエスのそばを離れないでいるなら、イエスの復活によって、わたしたちは永遠のいのちをいただくのです。

イエスの2つの実りをいただくことで、神の子として良い香りを放ち、永遠のいのちの希望に喜び踊る者となれるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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