主日の福音13/03/17(No.639)
四旬節第5主日(ヨハネ8:1-1)
わたしたちが人に投げかけるものとは

すばらしい喜びの知らせです。アルゼンチン出身の枢機卿さまが新しい教皇「フランシスコ」として選ばれました。教皇選挙のジンクスとして、「候補者として話題に上った人は選ばれない」という言い伝えがあるそうですが、今回選ばれた教皇さまも、噂されていた人ではなく、まさに神さまがお選びになった人だったようです。

聖ペトロ大聖堂のバルコニーから広場に集まった人々にあいさつしたとき、ちょっとしたジョークで笑いを誘ったのが印象的でした。「ここにいる兄弟の枢機卿たちは、地の果てまで行って教皇を見つけてきたようです。」そこには、ご自身選ばれるとは思っていなかったという驚きが込められているのだと思います。

今年は、3月17日がちょうど日曜日になりました。3月17日は、わたしにとって叙階記念日です。1992年(平成4年)3月17日、亡くなった島本要大司教さまから司祭叙階の恵みを受けてまるまる21年、今日から22年目を歩き出すところです。

もう1つ、今年は3月17日が叙階式に選ばれました。最近は何月何日が叙階式と言えなくなってきたので、今年は3月17日だったと言っております。かつて里脇枢機卿さまが教区長だったときは、3月19日聖ヨセフの祭日が叙階式の日と決まっていました。今はいろんな変遷があって、日曜日の午後3時から叙階式が行われています。日曜日の午後3時に叙階された神父さまと言えば、最近はみな当てはまるかもしれません。

今年の叙階式には、滑石教会の川端神学生が助祭に、本原教会の中野助祭が司祭に叙階されます。2人とも、ちょっとした縁があります。2人の叙階式のために、11時鯛ノ浦発の船で長崎に渡り、浦上教会でその姿を見届けてきます。皆さんは、各自で受階者のためにお祈りください。

中野師については、こちら浜串とも縁がある方ですから、近いうちに浜串教会で初ミサがささげられるだろうと思います。本人と連絡を取って、日取りが決まり次第お知らせします。初ミサは、特別なお恵みをいただけるミサとされていますから、ぜひ参加されることをお勧めします。

さて、四旬節第5主日を迎えました。福音朗読にはイエスが「わたしもあなたを罪に定めない」と仰って、姦通の現場で捕らえられた女性をゆるす物語が選ばれています。先週の「放蕩息子のたとえ」と同じように、すっかり立場を失った人を、神が憐れみ深く接してくださるという、四旬節の大切な心構えを考えさせる箇所です。

律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女性を連れて来ました。宗教指導者たちは、彼女が犯した罪は死に値すると騒いでいます。当時は石投げの刑というのがあったようで、どうやらモーセの律法を盾に取れば、その罰を免れそうにありません。

しかしイエスは、事件がご自分を訴える口実に使われていることをすぐに見抜きました。イエスの返事次第では、イエスは窮地に立たされるわけです。イエスがこの女性に石殺しを命ずるなら、ユダヤ人から取り上げられている石殺しの権限を行使したかどでイエスをローマに訴えることができるし、もしこの女性を大目に見て釈放するなら、律法を無視する不届き者だと騒ぐでしょう。指導者たちの罠を打ち破る必要がありました。

イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(8・7)と答えます。確かに、石投げの刑に値するのだろう。しかし、もし投げるのならあなたにその資格があるかと問われたのです。

人を罪に定めることができるのは、紙に書かれた律法でもなく、罪から逃れられない人間でもありません。罪とは無縁な神、また神の子イエス・キリストだけが人を罪に定めることができるのです。「石を投げなさい」というイエスの言葉に宗教指導者たちは我に返り、人を罪に定めることなどできないと気づき、一人また一人とその場を去って行きました。

「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」「主よ、だれも」「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(8・10,11)

婦人とイエスとのやり取りに、イエスの憐れみ深い思いが溢れています。イエスだけは、彼女に石を投げることができたはずです。そのイエスさえも、彼女に投げかけたのは愛とゆるしだったのです。イエスが示した優しさは、そのままわたしたちに示されたお手本だと思います。わたしたちが人に投げかけることができるのは、人を傷つける石ではなく、人を守り、包む愛と、憐れみなのです。

イエスと婦人とのやり取りは、婦人の罪を見逃すという意味ではありません。「だれもあなたを罪に定めなかったのか」というイエスの問いは、罪があったことを見逃してはいません。彼女が「主よ、だれも」と答えることも、神の憐れみが注がれたことを思い出させています。

イエスと彼女とのやり取りは、どれ一つ取っても不必要なものは含まれていません。イエスが「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と送り出すことで、これからの人生で神の憐れみを受けた人として、神の憐れみを忘れない人として生まれ変わったのです。彼女もまた、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」(ルカ15・32)人物と言えるのではないでしょうか。

わたしたちが人に投げかけるものは何でしょうか。また投げかけることのできるものは何でしょうか。イエスがその答えを示してくださいました。わたしたちに投げかけることがゆるされているのは、愛といつくしみ、ゆるしです。

なぜなら、わたしたちもイエスと同じように、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」その喜びのために召し出されているからです。今年もまた長崎教区に司祭が与えられますが、四旬節に示された神の愛をこの地上に行き渡らせる司祭となってくれるように、共に祈りたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(ルカ23:1-49)
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