主日の福音13/03/10(No.638)
四旬節第4主日(ルカ15:1-3,11-32)
唯一の選択肢が、神の国の祝宴を広げていく

これまで10日間、「ベネディクト16世」の名前を唱えないでミサをささげてきています。そう努めてきましたが、10日間のうち半分は、「ベネディクト16世」と唱えたあとに「しまった」と気づきました。

言い間違えたのは唱え直すことができますが、省くことになっているのを唱えてから、唱え直すというのも変な話です。ちなみに、「3月12日」から教皇選挙(コンクラーヴェ)が始まるそうです。時代にもっともふさわしい牧者が与えられるように、心を合わせて祈りましょう。

四旬節第4主日C年は、福音朗読に「放蕩息子のたとえ」が選ばれています。英語聖書の同じ朗読箇所の見出しは「見失った息子のたとえ」となっています。これは物語のとらえ方の違いと関係しています。

下の息子を中心に物語をとらえると、上の息子が見事に言い当てたように、「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来た」(15・30)という物語なのですが、父親を中心に物語をとらえると、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(15・24)息子の物語となります。父親を中心に物語をとらえてこそ、この物語に学ぶところがあるわけですから、「見失った息子のたとえ」としたほうが適切な気がします。

先週、伊王島の馬込教会を訪問して、土曜日の朝ミサにわたし一人が寝坊したという話しをしました。その土曜日の福音朗読は、何と第4主日と同じ「放蕩息子のたとえ」の箇所でした。まだ頭の中は眠った状態で絞り出した説教は、「司祭生活21年、たとえ話の中の下の息子の立場が、今日ほどよく分かった日はありません」というものでした。

わたしは寝坊したことでみんなを待たせ、主任司祭にも迷惑をかけたし、一緒に訪問していた浜串の婦人部のみなさんのメンツも丸つぶれになってしまいました。たとえ話の中で下の息子は放蕩の限りを尽くして完全に立場を失って帰って来ました。そのように、わたしも完全に立場を失って、皆さんの前に現れたわけです。

もうどんな裁きを受けてもしかたのない状態でした。通常の生活ではなかなかそのような場面は起こらないわけですが、けれども決して起こり得ない話でもないと思います。1年ほど前に、NHKが「はつ恋」というタイトルの10回くらいの連続ドラマを放送していまして、木村佳乃さん演じる主人公が家庭を崩壊させてしまうような過ちを犯し、それがどのようにしてゆるされて本来の家庭の姿に戻っていくかというテーマが取り上げられていました。最近はNHKでもこういうドラマを取り上げるんだなぁと思いましたが、主演の女優さんは見事にその役を演じきりました。

今のは1つの例ですが、家庭の中で、立場をなくしてしまうような過ちを犯したり、会社の中で立場を失うようなことをしでかしたりというようなことは、ないとは言い切れません。そんな時、どのようにその過ちを犯した人をゆるし、受け入れるか。どのようにして過ちから生じた深い傷を修復し、立ち上がって新たな一歩を踏み出すか。そういう問題をまさに今週の福音朗読は考えさせてくれると思います。

そこで父親として登場している人物の姿を学ぶ必要があるわけです。父親は、放蕩の限りを尽くしてあわれな姿をさらしている下の息子を、遠くにいるうちから見つけ、走り寄って首を抱き、接吻したとあります。

ただここでも問題があります。わたしが父親だったらどうだろうか。同じように振る舞うだろうか。そう考えたとき、もしかしたらわたしが父親だったら、「本当はわたしはお前に期待していたのだ。その期待をこんな形で裏切ってくれるとは。お前の望み通り、雇い人と同じ生活をしなさい」と言うのではないだろうかと思ったのです。

しかし、イエスがわたしたちに求めているのは、物語に登場する父親の態度に見倣うこと、それだけが唯一の答えだと教えていると思います。もし父親の立場に立って、同じ態度を取れないとしたら、それは唯一の取るべき態度にたどり着いていないことになります。わたしたちが求められている態度はたった一つ、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」選択肢は他には与えられていないのです。

この、唯一の取るべき態度にたどり着くためには、何が必要なのでしょうか。おそらく、「死んでいた」「いなくなっていた」という姿から立ち帰ることがいかに大事であるかを心底理解することだと思います。人が、死んだような状態にあることがどんなにもったいないことで神が悲しみ、深い憐れみを感じる状態かということをよくよく理解しなければなりません。

立場を失うようなことがあっても、もう一度神に立ち帰るなら、その時から人は死んでいたのに生き返るわけです。その時、周りの人は原因となった過ちを強調するのではなく、神に立ち帰ろうと決めたこと、ここにこそ目を留める必要があるのです。この態度が、父である神に倣う唯一の取るべき態度だのだと思います。

もちろん、そう簡単ではないでしょう。先にちょっと触れたNHKのドラマでも、家庭に亀裂を生じさせた妻を受け入れるのに6年の歳月が必要でした。それでも、ただ一つの選択肢を選んだことで、家庭はもう一度あるべき姿に進むことができたのです。

イエスは、十字架の道をたどることで、唯一の取るべき態度を選ぼうとなさいます。人類が、死んでいたのに生き返るためには、神との和解からはるか遠くにいるうちからイエスが見つけ、走り寄って首を抱き、接吻する以外に方法はなかったのです。

イエスが歩まれた道が、ただ一つの道です。イエスが選んだ選択肢が、ただ一つの選択肢です。わたしたちも、立場を失った人が立ち帰ろうとするときにもう一度受け入れましょう。父なる神の態度を唯一の選択肢として神の民それぞれが選ぶとき、祝宴を開いて楽しみ喜ぶ神の国が広がっていくのだと思います。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ8:1-11)
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