主日の福音13/02/03(No.633)
年間第4主日(ルカ4:21-30)
あなたの心の器を満たしてくださるかた

司祭団マラソン大会は疲れました。順位は7位でしたが、ほとんどの神父さまがタイムを大幅に伸ばした中で、わたしだけがまったくタイムが伸びず、順位を下げてしまう結果になりました。

去年は1キロ5分を切る人は1人しかいなかったのに、今年は上位4人が1キロ5分を切ってきました。いかにレベルが上がっていたかということが分かります。5分を切るのはかなり難しいですが、みなさんの喜ぶ顔が見たいので、努力してみたいと思います。

年が明けてから紅茶を飲むようになりました。自分で買い求めたのではなくて、東京から浜串教会のクリスマスミサに参加してくださったエッセイストの方が、東京のお土産としてくださったものです。せっかくならおいしくいただこうということで、ハリオのガラス製急須を買い求め、紅茶の色合いを目で確かめながら飲んでいます。

日本茶も紅茶もそうですが、急須にお湯を注ぐ時、分量を加減してお湯は注ぐはずです。間違っても無制限にお湯を注いでお湯をあふれさせるようなことはしないでしょう。また、すでにお湯が入っているのに、それにさらにお湯を足したりはしないはずです。お湯があふれ、紅茶もお茶も無駄になってしまうのは目に見えているからです。

わたしは今週の福音朗読を学ぶのに、急須に注ぐお湯をヒントにしてみたいなと思いました。今週の朗読箇所の中で、「満たされる」という言葉がもとになっている単語が2つあります。1つはイエスが「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と言われた時の「実現した」という単語です。

もう1つは、意外に思われるかもしれませんが、イエスの言葉を受け止めることができなかった会堂内の人々が「皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」(4・28-29)という場面での、「憤慨した」という単語です。

「預言が実現した」ということと、「人々が憤慨した」ということに何の関わりがあるのだろうかと不思議に思うかもしれません。この両者は満たされるものが違うために、これほどの開きになりました。一方は神の言葉が満たされ、他方はイエスの言葉を理解しない人々の不満や怒りが満たされたのです。

説教の始めに、急須のことに触れましたが、神の言葉が満たされ、預言が実現しました。それはたとえば急須にお湯が注がれ、紅茶が出来上がった状態です。紅茶はそのままにしておくと酸化して傷んでいきます。出来上がったなら、時を置かずにカップに移し、それを飲んで楽しむべきです。最初のお湯が注がれた状態に、さらにお湯を注ぐべきではない。それはだれでも分かることです。

イエスは、預言の言葉が実現したと語りました。それを会堂にいた人々は何も足さず何も引かず、受け入れるべきでした。けれども人々はイエスの言葉をそのまま受け取りませんでした。「この人はヨセフの子ではないか。」(4・22)人々の期待は、イエスが神の言葉を語ることではなく、郷里の自分たちをひいき目に扱って、便宜をもたらしてくれることを願っていたのです。

イエスに、地元をひいきする気持ちが一切無いことが分かると、人々の心は怒りで満たされます。人々の期待と、イエスの願いとは水と油の状態です。怒りが満たされた人々という急須の中に、イエスによって満たされた神の言葉が注がれるとどうなるでしょうか。それは急須からあふれだし、人々の口に神の言葉は何も残らないでしょう。

人々はすでに怒りに満たされ、イエスの言葉をまったく受け付けない状態になっていました。自分たちの都合に合うことを言ったりしたりしてくれないなら、もはやイエスなど必要ない。そのような気持ちだったのでしょうか。人々はイエスを崖から突き落とそうとさえしたのでした。

急須をあふれ出したお湯は、高い所から低い所へこぼれていきます。高ぶっている郷里の人々から排斥されたイエスは、低い心がけの人、貧しい人、謙虚に耳を傾ける人々のもとへ向かいました。「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」(4・30)この場面はわたしたちにも教訓を与えているのではないでしょうか。

わたしたちの心の中は、良い香りを放つ茶葉を用意された急須のようです。もしそこに、神の言葉が注がれ、満たされるなら、わたしたちは神の言葉の良い香りを放ち、人々を喜ばせる急須となることでしょう。

ところが、良い茶葉を用意されているのにわたしたちが日常生活で怒りや不平不満や憎しみで急須を満たすならどうなるでしょうか。わたしたちが放つ香りは怒りや憎しみとなり、わたしたちが人々に注ぐものも迷惑なものとなるでしょう。怒りや不平不満に満ちた心の急須には、イエスが満たしてくださるはずの神の言葉も恵みも留まらず、氾濫して他の人々に向かうのです。

わたしたちの心の中は今どうなっているでしょうか。イエスから神の言葉を注がれるだけの場所が残されているでしょうか。独りよがりの思いで満たされていたり、ましてや悪い思いに充ち満ちているなら、いったんその急須は空にしましょう。

もう一度祈りのことばや聖書を読むことで新しい茶葉を調え、イエスに恵みを注いでもらいましょう。そうしてわたしの心を良い香りで満たし、それを周りの人と分け合って喜びましょう。イエスは今日も、自分たちに都合の良いことばかりを求めようとする高慢な人々の間をすり抜けて、恵みを注がれる時を待ち続けている謙虚な人のもとへ向かおうとしておられます。
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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(ルカ5:1-11)
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