主日の福音13/01/27(No.632)
年間第3主日(ルカ1:1-4,4:14-21)
聖書の言葉はイエスによって実現する
先週の教会学校で、堅信を受けた中学生にお願い事があって、勉強を始める前に切り出したんです。「来年から中学生は1・2年生だけだと3人になるから、中学3年生になってからも聖書の朗読を続けてくれないか。」すると、堅信を受けた中学生たちから即座に「嫌です。しません」と断られました。
わたしは断られても頼むしかないので、「そう言わずに引き受けてくれ。君たちの頑張りがあると、再来年以降も中学3年生が聖書を読むすばらしい伝統が出来上がるんだよ」と言いますと、もっと激しく抵抗されまして、「絶対嫌です。福見では小学生が聖書朗読しているじゃないですか。来年から日曜日の侍者をする小学生にさせればいいじゃないですか。」とまくし立てられました。
確かに木曜日夕方のミサで、福見教会の小学生は聖書の朗読をしています。それはそうだけれども、堅信の秘跡を受けて、来年は中学の最高学年になるみんなに、わたしは聖書朗読をして欲しいと思っているわけです。目の前で「絶対嫌です」と言っているのを無理強いすることもできず、「来週また話そう」と言って、ひとまずその話は取り下げて勉強を始めました。
なぜわたしの言っていることが通じないのでしょうか。受験生になる来年、聖書朗読を通して典礼のお手伝いをすれば、必ずイエスさまからの報いがあって、受験の時に恵みが働いてくれるのです。それを知らせたくて喉まで出かかっているのですが、言わないでおこうと思います。
全部説明してあげるのは、堅信の秘跡を受けた中学2年生に対して失礼です。あそそこまで神父さまがお願いしているのはなぜだろうと、自分で考えて答えを探せると思っています。しかし絶対引き受けないというのはいかにももったいないことです。
わたしは中学3年生の時、もう一人の先輩神学生とほぼ1日交代で毎日のミサの聖書朗読をしました。高校受験には、文章の理解力、記憶力、知らない言葉を推理する力が必要ですし、面接試験の時に初めて会う先生に堂々と自分の考えを伝える力も必要です。わたしはそれらすべてをミサの聖書朗読で培いました。でも、それは言わないでおきましょう。
今週の福音朗読は、イエスが会堂でイザヤ書を手渡されて、目に留まった箇所をお読みになり、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と話し始められたという場面になっています。
念のために断っておきますと、来週は今週の場面の続きで、これほど恵みに満ちたことをイエスが話したにもかかわらず、会堂に集まっていた人々から追い出され、山の上の崖から突き落とされそうになるという出来事が控えています。ですからここはぬか喜びできない場面です。
わたしが今週考えたいのは、「聖書の言葉は、どのようにして実現するのか」ということです。イザヤの預言は、イエスの時代から何百年も前に語られた言葉です。何百年も前の出来事が、イエスによって語られた時に、「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われているのです。
3つの条件が必要になります。1つは、預言の言葉を語る人が必要です。ここではイエスがイザヤの預言の言葉を語ります。2つめは、預言の言葉を聞く人が必要です。ひとまずは、会堂内にいるすべての人が、預言の言葉を聞いています。3つめは、預言の言葉を実現するイエスがそこにおられるということです。この3つが揃わないと、どれだけ時間が経過しても、どれだけ預言の言葉を語る人が増えても、預言は実現しません。
ですから預言が実現するその中心には、必ずイエスがおられることが必要です。何百年前に預言者に託された言葉も、イエスがお生まれになり、イエスを通して預言は実現することになりました。救いに関わるすべての預言は、イエスを通して実現していきます。
福音書のさまざまな箇所で、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という引用があります。それはイエスの言葉、振る舞いと結びついています。イエスがこのように言われたのは、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」イエスがこのように振る舞ったのは「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」というような表現です。預言の実現には、必ずイエスがそこにおられることが鍵になってきます。
そこでもう一度堅信を受けた中学生がミサの聖書朗読を引き受けてほしいなぁという話に立ち帰ると、この願いが神に受け入れられて実現するためにも、3つの条件が必要なのではないかと思うようになりました。
預言の言葉はこうです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)この預言の言葉を語るのは中田神父です。この言葉を聞くのは今日ミサに集まっているすべての人です。そしてここにイエスがおられます。3つの条件すべて整っています。条件はすべて揃っていますから、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」はずです。あとは信頼をもって、粘り強く堅信の秘跡を受けた中学生に考えてもらいたいと思います。
中学3年生という期間は生涯で1度しかありません。わたしも十分それは理解しています。明後日火曜日、わたしは司祭マラソン大会に行ってきますが、これまでの努力の結果を発揮できるのはこの日しかありません。たとえ何百日、この日のために努力しても、大会当日に風邪を引いて不参加となれば、いくら「練習では調子が良かった」とか「出場していれば好成績が残せたはずだ」と言っても通用しないのです。
1度しかないチャンスを、「福音を宣べ伝えなさい」という預言の実現のために力を貸してくれたらどんなに嬉しいでしょう。そうわたしは思っています。わたしだけでなく、ここにいるすべての人が、もっと言うとこの説教をブログやメルマガで読んでくれているおよそ500人くらいの読者が、同じ期待を持っていると思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
(ルカ4:21-30)
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