主日の福音13/01/20(No.631)
年間第2主日(ヨハネ2:1-11)
イエスこそが、神と人とを結ぶぶどう酒

上五島地区の兄弟司祭が脳出血で倒れて約半年、昨年10月に見舞ってから3ヶ月ぶりに長崎のリハビリテーション病院に見舞いに行きました。この病院は機能回復のリハビリを専門に施す病院です。

まず感じたのは、3ヶ月前とは見違えるような回復を見せていたということです。わたしの記憶では、3ヶ月前には自分で車いすから立ち上がったりはできなかったと思うのですが、洗面台の鏡を前にして、車いすに座った状態から、すっと立ち上がってみせました。わたしも思わず「おお!立ち上がれるようになったか」と声が出ました。

見た目もすっかり変わりました。半年前に倒れた時は体重が160キロあって、ヘリコプターで運ぶのに往生したそうですが、本人の話では120キロを切ったと言っていました。こんなこと言ってよいか分かりませんが、「ようやく人間になったなぁ」と心の中で思いました。

前回見舞った時は明らかに言語障害が見られて、言葉が出て来なかったり、話しているつもりでも舌が回っていなかったりしていたのですが、この前会った時は、与えられた文章を声に出して読む訓練をしていまして、読み間違いはあったにせよ、格段に回復していると感じました。

全体として、希望の持てる回復ぶりだなぁと思いました。もちろん、もとの教会に復帰するのか、または違った形で司祭として生きていくのか、一司祭に過ぎないわたしには何とも言えませんが、一般的な「機能回復」という意味では、本当によく頑張っているなという印象でした。

年間の主日に入りました。主の降誕のあとの年間主日は、頭に灰をかぶる「灰の水曜日」から始まる四旬節までの短い年間主日です。今年は四旬節までに4回年間主日が回ってきます。

降誕節直後の年間第2主日に、福音朗読は「カナでの婚礼」を選びました。カナの婚礼での出来事は、ぶどう酒がなくなり、宴会が台無しになろうとしていた時に、マリアがその様子をさりげなくイエスに伝え、いったんは母マリアの願いを退けているように見えますが、水をぶどう酒に変えるという最初の、驚くべきしるしをおこなうという物語です。

今回わたしは、救い主イエスの降誕と、イエスの御受難を念頭に置いて、この物語を考えてみたいと思います。まず婚礼の席でぶどう酒がどのような役割、意味合いを持っているかを考えてみましょう。

結婚した夫婦を祝うために集まった婚礼の客は、家族や親戚のような身内は血縁関係がありますが、その他はいわば他人です。その他人が、婚礼の席に留まっているのは、ぶどう酒のおかげと言ってよいでしょう。ぶどう酒に代表される食事やお酒を振る舞ってもらい、食事をして喜び合っているから、その場にいるわけです。もし食事が出ないのなら、長居をする理由もなくなってしまいます。そうした、多くの人が婚礼の場に留まるための大切な飲み物として、ぶどう酒は必要なものでした。

ところが、そのぶどう酒がなくなってしまいます。招待した側は、思いのほか客がたくさん入ってしまい、必要なぶどう酒の量を読み誤ったのかもしれません。このままだと、婚礼の席に、ぶどう酒があるから留まっているような人々は、その場にいる理由がなくなり、帰ってしまうことでしょう。

マリアはそのことを敏感に察知して、イエスに「ぶどう酒がなくなりました」(2・3)と言ったのだと思われます。客が帰ってしまわないためには、客を婚礼に結びつけるものがどうしても必要です。「ぶどう酒がなくなりました」イエスにはこれだけで伝わる、そう考えたのでしょう。

ところが、イエスはいったんは母マリアの願いを退けたかのような反応をします。イエスは客を婚礼に結びつけるためには力を貸してくれなかったのですが、婚礼に来たすべての人を、父なる神に結びつけるために、マリアの願いに応えてくださったのです。

イエスは婚礼の召し使いたちを使って、水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。けれども、この奇跡を表面だけで受け取るべきではありません。この奇跡は、単に客を婚礼に結びつけるための奇跡ではないのです。

そうではなく、今にも大混乱に陥ろうとしている客や招いた人々を、神は心配して救ってくださる。そのことを教えるためのしるしだったのです。婚宴の席だけではなく、人が途方に暮れそうになるあらゆる場面で、イエスは神と人々を仲介するぶどう酒となってくださり、必ず救ってくださる。そのことを教えるためのしるしだったのです。

今週の説教で前置きしたことにも話をつないでおきましょう。今の年間主日は、降誕節のあと四旬節に入るまでの4週間だと言いました。イエスは、今日のカナでの婚礼のしるしで示されているように、ぶどう酒となるためにお生まれになったお方です。

ぶどう酒が、婚礼の席で結婚する当事者と客を結ぶものであったように、お生まれになったイエスは、神と人とを結び付けるぶどう酒となるために、お生まれになったのです。

それだけではありません。この短い年間主日を過ぎると、四旬節です。イエスの受難に向かっていく季節です。受難とご死去に結び付けて考えるなら、イエスは神と人とを、ご自分の血を流して結び付けるためにお生まれになったのです。ご自分の血を流して、ご自分の血をぶどう酒とされて、神と人とを結び合わせるために、お生まれになったのです。

あらためて、イエスが水をぶどう酒に変える場面を思い起こしましょう。80リットルから120リットル入る水がめ六つを、かめの縁まで満たし、すべてぶどう酒に変えたのです。それは、全世界の人を救うために流される、十字架上のイエスの血の量と言ってもよいのではないでしょうか。

かめの縁まで満たした水がぶどう酒になり、婚礼の席に集まった人が窮地を救われました。あの出来事は神の救いのみわざのしるしに過ぎません。全世界の人、わたしたちも含めてすべての人が救われるために、イエスは神の国のぶどう酒となってくださったのです。ミサの中で感謝をささげましょう。そして機会を捉えて、「イエスはわたしたちと神さまを結び合わせるぶどう酒です」と、告げ知らせることにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(ルカ1:1-4,4:14-21)
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