主日の福音13/01/13(No.630)
主の洗礼(ルカ3:15-16,21-22)
イエスが並ぶ列にわたしたちも並ぶ

司祭団のマラソン大会も目の前に迫ってきました。毎日欠かさず走っているわけではありませんが、健康ってありがたいなぁとつくづく感じます。完全な健康体というわけではありません。コレステロール値は高いし、血圧も高めです。けれども、今年のマラソン大会に向けてコツコツ練習を積み重ねていけること。それだけでも有り難いなと思うのです。

こんなことを言うのには訳があります。聞いた所では、今年目標にしていたライバルが、どうやら肉離れを起こして戦線離脱するらしい、という情報を聞いたのです。目標にしていると言っても、去年のタイムで1分の差がありましたので、相当高い目標だったのですが、目標としていた相手が早々といなくなってしまいました。

また、同級生とか、少し上の先輩方を見渡すと、ある同級生は膝を壊していて参加もままならないと聞いていますし、タイム的にもっともライバルになりそうな少し上の先輩も、ここ最近は病気をおしてレースに参加しているそうです。他にも血圧の薬を飲んでいる先輩とか、ましてや脳出血でマラソンどころではない後輩もいます。そうした身近な司祭たちと比べれば、わたしは練習ができて、レースに参加できるのですから、健康に感謝です。本当にそう思います。

「記録は狙えないけど、今年も健康で走れたね。」そういうレベルのマラソン大会ですが、もしよかったら、冷やかしに1月29日(火)、五島市の福江教会にお集まりください。今年は、福江教会スタート、折り返して福江教会ゴールとなるはずです。当日10時スタートです。

さて今週は「主の洗礼」を祝っています。イエスが洗礼を受けたという記述については、史実かどうかが疑われていました。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたということは2つのことを連想させます。

1つは、洗礼を授ける者は洗礼を受ける者よりも上の立場にあると考えられますが、それだと洗礼者ヨハネはイエスよりも上の立場にあることになります。もう1つは、洗礼者ヨハネが授けていたのは「悔い改めの洗礼」でした。イエスがこの洗礼を受けたとなれば、イエスには悔い改めるべき事が何かしらあったのかという問題が生じます。

ルカは、この2つの疑問に正面から立ち向かって、イエスはそれでも洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのだと、言いたいのだと思います。触れないでおけば、議論にならなかった部分をあえて取り上げているのですから、ルカにはそれなりの覚悟があったと考えるべきでしょう。

2つの疑問に、説明はつくでしょうか。まず1つめは、洗礼を授ける者が、洗礼を受ける者よりも上の立場なのではないかという点です。わたしは経験上、恵みを授ける者が、恵みを受ける者よりも低い立場なのに、奉仕の務めを果たしているのを見ています。叙階式、新司祭が誕生する喜びの日に、新司祭は多くの人から「わたしの上に祝福をお願いします」と願われます。わたしも新司祭の時にそうやって頼まれました。

わたしの目の前にひざまずく人々の中に、わたしが福岡の大神学院時代に8年間教え、指導してくださった教授がいました。うやうやしく、新司祭の前にひざまずく大先輩の司祭、教え導いてくださった司祭がひざまずくのを見た時に、胸が熱くなるのを覚えました。わたしが偉いからわたしの前にひざまずいているのではありません。わたしを通して働く父なる神の前に、教授であった司祭もひざまずいておられたのです。

すると、洗礼者ヨハネの前にイエスがひざまずくのは、洗礼者ヨハネを通して働くイエスの父である神に、ひざまずいているのではないでしょうか。そうであっても、もちろん洗礼者ヨハネを無視しているわけではありません。洗礼者ヨハネを通して、父なる神が働いていることを、イエスはよく理解しておられます。ですから、イエスが洗礼者ヨハネの前にひざまずいて、洗礼を願うことは十分可能です。

もう1つ、イエスは悔い改めの必要があったのか、という点です。結論から言うと、イエスには悔い改める点は何もなかったし、その必要もありませんでした。けれども、民衆が皆洗礼を受けているその列に並ぶことは、イエスにとって十分意味があるとお考えになったのです。

わたしたちはどうしても行列に並ぶ必要があると考えれば、1時間でも2時間でも行列すると思います。わたしは大学生の時にディズニーランドでその体験をしました。乗ってみたいと思ったアトラクションの列に近づくと、係の人が「最後尾・2時間待ち」という看板を持っていたのです。「別のアトラクションに回ろう」と言う友だちもいましたが、2時間待ちの列に並び、忘れられない体験をしました。

「民衆が皆洗礼を受けていた」その場面は、まさに洗礼者ヨハネの前に立つために行列をして並んでいたということではないでしょうか。それほど、悔い改めの洗礼の列に並ぶことは意味があったのです。

洗礼者ヨハネのもとに集まった人たちは、どうすれば、神さまとの関わりを正しい姿にできるか、悩んでいた人たちでした。彼らは悔い改めの洗礼こそが、神さまとの関わりを正しいものにすると考え、望みをかけて列に並んだのです。

イエスも民衆の列に並びました。ただイエスのお考えは、民衆の考えを超えていました。イエスご自身が、前にいる民衆も後に続く民衆も、神との正しい関わりに導くために、列に並ばれたのです。たとえどんなに長い列でも、そこに並ぶすべての人を神との正しい関わりに導くために、イエスが並ぶ必要があったのです。そして、民衆に悔い改めの洗礼を授ける洗礼者ヨハネをも、イエスが授ける聖霊による洗礼に導くために、列に並んでいたのです。

わたしたちも、イエスとともに当時の民衆の列に並びましょう。イエスが並ぶ列にわたしたちがともに並ぶ時、その列は清められ、導かれていきます。わたしたちが何かの方針を立てる時、何か一致した行動を取る時、その列にイエスも並んでくださることを願い求めましょう。イエスが並ぶ列には、父なる神が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3・22)という声をわたしたちは聞くことができます。
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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ2:1-11)
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