主日の福音13/01/06(No.629)
主の公現(マタイ2:1-12)
幼子イエスを近くに感じて生きていく

正月休みで実家に帰っていました。三男と、末っ子の妹夫婦も帰ってきていました。久しぶりに賑やかな正月でした。

帰省中も、変わらず走り込みをしました。蛤地区にある有川総合運動公園に、野球場をぐるっと囲むようにジョギングコースがありまして、1周700メートルのジョギングコースをひたむきに1時間走り続けました。この日は帽子を忘れまして、何もかぶらずに走り出しました。

走っている間、何人か人と会いましたが、三輪車に乗っている2人の女の子と途中ですれ違いました。この女の子たちが、奇妙なことを言い出したのです。「見て見て。カッパがいるよ。」そこにわたししかいなかたので、わたしは「失礼な子供だなぁ」と思いつつも、認めたくなかったので無視して周回を続けました。

この三輪車の女の子の前をもう一度通りましたら、あっけらかんとして「こんにちは(笑)」と声をかけてくるのです。「このやろう」と思っていたので、不機嫌そうに「こんにちは」と返して通過しました。その、通過した直後です。「ほら、やっぱりカッパだ。」だれがカッパですか。もう蛤の運動公園周辺は絶対に走りたくないです。

カッパの話は少々言ったくらいでは気が晴れませんが、大人げないのでもうやめます。今週は主の公現の祝日、占星術の学者たちがひれ伏して幼子イエスを拝む場面です。あらためて、この占星術の学者たちの言葉「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(2・2)から、今週の学びを得たいと思います。

「ユダヤ人の王」という呼び名は、素直に受け取ると「ユダヤの国の王」「ユダヤの人々の王」という意味かなと考えます。「イギリス女王」とか、「ブータン国王」と言う時は、上記の意味になるからです。

ところが、「ユダヤ人の王」という表現が、新約聖書のどこに現れるかを考えると、地域や国民を限定する王という意味ではないようだということが分かります。「ユダヤ人の王」は、「イギリス人の王」「ブータン国の王」とははっきり区別されるのです。

具体的な数字で見てみましょう。「ユダヤ人の王」という表現は新約聖書の中に17箇所現れますが、そのうち16箇所はイエスの受難の場面で使われています。唯一の例外は、今週の朗読箇所です。残る16箇所、イエスの受難の場面で「ユダヤ人の王」と呼ばれるのは「人類のために十字架上でいのちをささげる王」という意味です。

すると、マタイは、特別な意味を持たせて占星術の学者に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と言わせているのではないでしょうか。この推理が当たっているのであれば、今週の朗読箇所で出てきた「ユダヤ人の王」も、もはや例外とは言えなくなります。

朗読に戻りましょう。占星術の学者たちがヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とあいさつした時、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(2・3)とあります。

ヘロデが不安を抱いたのは、生まれたというその幼子が、「十字架の上で命をささげる王」であるから、不安をかき立てたのでしょうか。そうではないと思います。ヘロデは人のために命をささげる高尚な王など、まったく興味がないのではないでしょうか。ヘロデが警戒し、神経をとがらせるのは、「自分の王位を脅かす存在であるかどうか」のはずです。王位を脅かすと感じたので、ヘロデは不安を抱いたのです。

そうなると、ヘロデは占星術の学者たちの言葉を理解しなかったことになります。後に十字架の上で命をささげる王として生まれた幼子を、ヘロデは自分の王位を脅かす存在と取り違えたのです。

ヘロデは、ユダヤの国で権力を握っていましたから、どんな人にも近づくことができる人物でした。ヘロデが幼子イエスに近づきたいと心から望めば、イエスに近づくことはできたでしょう。けれどもヘロデは、幼子イエスの存在を自分から遠ざけ、その命を狙おうとさえしていました。

一方占星術の学者たちは、外国人でありながら、もっとも近くに寄ることができました。イエスのそばに行きたい。イエスにご挨拶したい。その真摯な気持ちが、星の導きによって形になったのです。

ヘロデと占星術の学者たちとの違いがここに明らかになります。ヘロデは、イエスを遠ざけようとする人の代表です。占星術の学者たちは、イエスに心から近づきたいと願う人々の代表です。どちらの姿を、わたしたちが受け入れるのか。それが今週問われています。

もちろん、わたしたちはイエスに近づきたいと思い、イエスの前に姿勢を低くすることが期待されています。幼子に贈り物を用意し、礼拝をささげた占星術の学者が幼子イエスにいちばん近づくことができました。わたしたちにも贈り物があって、礼拝する気持ちがあれば、必ずイエスのいちばん近くに行くことができるはずです。

もう一度、イエスとわたしたちの間の距離を確かめましょう。わたしはイエスを近くに感じたいと思っているでしょうか。イエスを嫌い、遠ざけたいと思っているでしょうか。わたしの思っていることが、そのままわたしに態度を取らせます。ぜひイエスをつねに身近に感じ、身近に感じることを喜びとすることができるように、ミサの中で恵みを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
主の洗礼
(ルカ3:15-16,21-22)
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