主日の福音13/01/01(No.628)
神の母聖マリア(ルカ2:16-21)
見聞きしたことは天使の話したとおりだった

新年明けましておめでとうございます。今年はいつもよりも寒さの厳しい新年となりました。何年か前にどさっと雪が降った年をのぞけば、わりと五島のこの時期は以前よりも暖かくなったかもしれないなぁと思います。今年は信仰年、信仰を見つめ直し、信仰を深める取り組みをみなさんと一緒に進めたいと思います。

小さな取り組みをここ1年数ヶ月続けてきました。日曜日のミサの前に録音CDを使って聖書の朗読を行い、新約聖書まるまる1冊を読み終えようという試みを行っていましたが、とうとう来週ですべて読み終えることになりました。

20分収録したCDの枚数が78枚でしたので、足かけ1年半かかかってしまいました。辛抱強く取り組みに参加してくださった方、ご協力に感謝します。もちろん、多くの人の参加を求めるには、いちばん良い方法だったとは言えないかもしれません。人数は少なくなりましたが、78回の朗読聖書に耳を傾けて新約聖書を読み終えた皆さん、おめでとうございます。次は信仰年に関わる取り組みを考えてみたいと思います。

新年を迎えての福音朗読は、羊飼いたちが、生まれたばかりの幼子、救い主を探し当てた場面から始まります。今日の朗読から2つ、取り上げたいと思います。1つは、「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだった」と羊飼いが確認し、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったということ、もう1つは、「羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」ということです。

「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだった」天使が羊飼いに話した言葉を確かめましょう。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(2・10-12)

たしかに、自分がその目で見、確かめた出来事は、すべて天使の話したとおりだったでしょう。話したとおりですが、なぜ羊飼いたちは、「布にくるまって飼い葉桶の仲に寝ている乳飲み子」を見るだけで、神をあがめ、賛美することができたのでしょうか。

実はわたしたちは、大事なことを見落としていると思います。救い主が生まれる。そんなに偉大なお方がおられる場所に、ふつうに考えると一般庶民が近づけるはずはないのです。仮に国王の下で王子が生まれて、その上もしも王子が布にくるまれて飼い葉桶の中に寝ていたとしても、そこまで一般人が近づくのは到底無理です。

ところが、羊飼いという、言ってみれば一般人よりも一段低く見られていたかもしれない人たちが、救い主を目の当たりにすることができました。とてもお目にかかることはできないだろう。そんなことさえ考えてしまう相手に、自分たちがお会いできたのです。

すると、「すべて天使の話したとおりだった」とは、羊飼いのために、救い主をお遣わしになっただけでなく、近寄ってその目で見て、感謝と賛美をささげることができた。そこまでを含んでいるということです。

もしお目にかかれなくても、救い主がお生まれになったことは信じることができたでしょう。喜ぶこともできたでしょう。けれども、近寄って、その目で確かめて喜ぶことができた。羊飼いには、畏れ多くて期待できないことまで叶えてもらったので、天使の話したことは全部本当だったと確信できたのです。

もう1つの点にも目を向けましょう。「羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」とあります。どんな思いで、人々に知らせたのでしょう。
わたしは、羊飼いが、知らせることを自分たちの使命だと感じて知らせたのだと考えます。興味を持ったから、話のついでに、人々に知らせたのではありません。これは、知らせなければならない。そう感じて行動したのではないでしょうか。

天使の語ったことが、出来事になったとは言え、それを他人事としてしまっては何にもなりません。自分たちのために、神のことばが出来事になったのだと納得しなければ、意味を失ってしまうのです。

もちろん、すべての人が同じような反応をするとは限りません。羊飼いたちが出来事を知らせた人々は皆、羊飼いたちの話を不思議に思ったとあります。救い主が生まれたことを知って、ある人は自分のことのように喜ぶでしょう。ある人は興味を示さないかもしれません。ある人は、敵意さえ持つかも知れません。知らせた人にも敵意を感じ、危害を加えようとするかもしれません。それでも、羊飼いは「知らせなければならない尊い出来事を見た」そう思って行動に出ました。

わたしたちも、信仰年の中で迎えた神の母聖マリアの祭日、正月元日を、「大切な、知らせるべき出来事を目にして信仰の門をくぐった」そう考えることにしましょう。信仰の門を神の母聖マリアを祝いながらくぐったわたしたちは、この一年行く先行く先で「大きな喜び」を知らせたいと思います。

「あなたには、大きな喜びがありますか。わたしには、大きな喜びがあります。」そう話しかける勇気を神の母に願いましょう。神のもとで執り成しをしておられる母マリアが、告げ知らせようとするわたしたちをこの一年見守ってくださるよう、このミサの中で願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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