主日の福音12/12/30(No.627)
聖家族(ルカ2:41-52)
神の計画に留まることは人間にふさわしい
2012年最後の日曜日を迎えました。わたしにとっては、小教区の神の家族が、どのように繋がっているのかがまた少し理解できた1年でした。まったく、歩みののろいカメのようですが、来年もこの小教区の神の家族を神さまと結び合わせるために働きたいと思っております。
主の降誕を祝ってからの典礼の流れ、わたしはちょっと首をかしげることがあります。御降誕のあと聖家族、神の母聖マリア、主の公現、主の洗礼と続いていきますが、聖家族を祝う順番は、もう少し後に、具体的には御公現のあとに回したらどうかなぁと思うのです。
今日の朗読を含め、聖家族に選ばれている福音朗読は3箇所あります、1つはエジプトに避難するマタイ福音書の場面、もう1つは両親が幼子を神殿に奉献するルカ福音書の場面、最後にこの神殿奉献に続く物語である神殿での少年イエスの物語です。
どれを選んだとしても、占星術の学者たちから礼拝を受ける出来事を記念する御公現のあとに、聖家族を持ってきたほうが、流れとしてスムーズではないかなぁと思うのです。典礼の専門家ではないので、それ以上強く言うことはできませんが。
さて、今年の聖家族に選ばれているのは、神殿での12歳の少年イエスにまつわる物語です。イエスは神殿に留まり、境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられました。ここにすでに、イエスは神がおられるこの神殿で、中心にいるのにふさわしい方なのだということが暗示されているかもしれません。
けれども、両親は少年イエスが自分たちからはぐれたのだと思い、引き返しながらイエスを捜し求めます。イエスは、神殿の真ん中に留まっていること、つまり父である神のいる場所を中心と考えていますが、両親は自分たちのもとに留まっていることが中心に留まることだと考えていたのかもしれません。だから両親は少年イエスがいるべき場所から外れてしまったと考え、捜し求めたのです。
心配でたまらず、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(2・48)と心を痛める母マリアに、イエスは不思議な答えを返しました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
ここでは2つのことを取り上げたいと思います。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(2・49)とイエスは言っておられます。「わたしが自分の父の家にいる」と言ったのはどういうことでしょう。
これは、すでに話した通り、ヨセフとマリアの両親の中にいることが中心に留まることと考えておられるか、父である神の中にいることが中心に留まることと考えておられるかに注目すれば、少年イエスが言っておられることの意味を汲み取ることができでしょう。少年イエスは徐々にご自分の使命を自覚し、父である神の中にいることが、自分の生活の中心なのだということを意識していたのだろうと思います。
ただ両親には、イエスの言葉の意味が分かりませんでした。それにイエスが一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになったので、そのことを追求しなかったかもしれません。この答えは、マリアが「これらのことをすべて心に納めていた」とあるように、ゆっくり時間をかけて意味が明らかになっていきます。
もう1つは、問いかけの部分です。「知らなかったのですか」という問いかけは、「知らなかったのですね」という意味ではないようです。むしろ、「知らないはずはないでしょうに」という意味があるそうです。実はここが最も大切な部分かもしれません。
「知らないはずがないでしょう」「ご存知のはずです」という意味を持たせて少年イエスは両親に「知らなかったのですか」と問いかけているのですが、本当に知っていたのでしょうか。知っていたとも言えますし、知らなかったとも言えるような気がします。
「知らなかった」と言えるのは、マリアはその後、この出来事を心に納めて思い巡らすことになります。出来事の意味を理解するまで、ずっと思い返すのですから、理解できていなかったかもしれません。
けれども、ヨセフもマリアも、自分たちが神のご計画の中で活かされていること、神の計画を中心に据えて生きる必要があることを、十分理解し、実行していました。その意味では、イエスが考えておられた「わたしが自分の父の家にいる」という態度を、ヨセフもマリアも生活の中で実行していたのです。ですから、知らず知らずのうちに、イエスが両親に知らせようとしていたことを理解していたとも言えます。
神に信頼して、神の計画から逸れることなく、神の計画を生活の中心に置いて生きる。それをごく自然に行動できる。だからヨセフとマリア、御子イエスは聖家族なのだと思います。すべてを理解しているから聖家族なのではありません。理解できないこともありましたが、それを心に納め、そこに隠されて今は見えない神の計画を信じることができた。この姿勢を生涯貫いたので、「聖家族」なのです。
わたしたちも、聖家族から生き方の模範をいただきましょう。「なぜこんなことをしてくれたのですか」そんな事件を家族のだれかが起こすかも知れません。「なぜこんなことがわたしたち家族に起こるのですか」そう言いたくなる出来事に遭遇するかもしれません。そんな時でも、神のお考えがきっとあるはずだから、神を信じる信仰から逸れない。神のご計画を中心に据えて生きる。この気持ちを保ちたいと思います。
父である神のご計画の中に、家族の生活を整えていけるように、聖家族の取り次ぎをミサの中で願うことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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