主日の福音12/12/25(No.626)
主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)
神のことばはこの世界を住まいとされた

あらためて、御降誕おめでとうございます。主の降誕日中の典礼は、ヨハネ福音書を福音朗読に選びます。神の子、父の独り子は、ひとことで言うならば光であるということです。毎年同じテーマなのですが、この点について今年も考えてみたいと思います。

2つ、指摘したいと思います。1つは、わたしたちが喜び祝っている神の子イエスは、暗闇の中で輝いている光です。神の子イエスはまことの光で、世に来てすべての人を照らします。暗闇は、物理的な暗さと、心の暗闇、両方を含んでいます。

神の子イエスが現れたことで、暗闇が光で照らされました。光は、それがかすかなものであっても、わたしたちにその存在を感じさせます。暗い夜道を歩く時、遠くにある外灯であっても、歩くために大いに助けになります。世に来られたイエスは、たとえその存在が遠くに感じられる時でも、わたしたちの歩む道に大きな助けとなるのです。

今の生活で、真っ暗闇の体験はあまり多くはないかも知れません。けれども、手探りでスイッチを見つけ、明かりを灯すことはあるでしょう。それはわたしたちに考えるヒントを与えてくれます。わたしたちの生活は、物理的な暗さだけが暗闇ではないはずです。人間関係や、達成しなければならない目標やノルマに押しつぶされそうになった時、心の中は暗闇になるかもしれません。

そんな時、わたしたちは暗闇を照らす光、暗闇を明るく照らす明かりのスイッチを探すのです。場合によってはそれは、手探りで探さなければならないかもしれません。けれども、暗闇をすっかり明るくしてくれる光である御子イエスにわたしたちがたどり着いた時、すべての暗闇は消え去るのです。御子の存在が、暗闇を照らす光となってくれるのです。

もう1つは、神の御子は「肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1・14)ということです。これは、まずはイエスの中に神がおられるということを意味しています。そして同時に、わたしたちの中にもいてくださるのです。御子の誕生の神秘によって、イエスご自身と、この世界が、神がいてくださる場所となりました。

イエスがわたしたちの間におられることをもう少し掘り下げましょう。わたしたちは生まれ育った環境をそれぞれ持っています。わたしの実家は、幼い頃台所は土間でした。風呂も五右衛門風呂で、薪を使って風呂を沸かしていました。

いろんな生活があり、精神的物質的豊かさもさまざまです。その、十人いれば十人とも違う暮らしの中に、神のことばであるイエス・キリストは宿ってくださったのです。宿ってくださり、置かれた場所に不平一つ漏らさず、そこに留まり続けてくださるのです。

わたしたちはこれまですでに、「あなたがいてくれて嬉しい」という体験を味わっているはずです。身近な人であったり、精神的に支えてくれる人であったりです。イエスは、わたしたちの間に宿られて、「あなたがいてくれて嬉しい」という存在になってくださるのです。

御子イエスは今日、わたしたちの暗闇すべてを照らすためにおいでになりました。同時に、この世界を住まいとしてくださいました。わたしたちが暮らしている今を、同じ場所に住んで、同じ喜びや悲しみを分け合ってくださいます。この幼子に、今日感謝をささげて帰りましょう。わたしたちに近くいてくださる神に、信頼の祈りをこのミサでおささげいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖家族
(ルカ2:41-52)
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