主日の福音12/12/09(No.622)
第主日(ルカ3:1-6)
神の言葉が降る生活を目指す

今週取り上げたいのは「しるしを見て、何を考えるか」ということですが、まずはとりとめのない話からです。ここ何週か、侍者の男の子がミサの前に髪の毛を濡らして整える場面に出くわしています。どうやら寝癖が気になるようで、水を付けては鏡を見て「大丈夫かなぁ」といったしぐさをしているのです。

わたしはそれを見て、「いいなぁ。寝癖ができて」と心の中で思いました。羨ましいですよねー。寝癖も、髪の毛があるからこそそうなるのであって、なければ、望むこともできません。

ところが数日前に、朝わたしが起きて鏡の前に立ったら、髪の毛が寝癖で跳ねているではありませんか。嬉しかったですね−。嬉しさのあまりそのままミサに出ようかと思ったくらいです。

ただ、わたしが寝癖を直さずにミサに出れば、子供と同じ見方はされませんから、そこは思い直して整えました。今度男の子が寝癖を直していても、「いいなぁ」とは思わないだろうと思います。

さて待降節の第2主日と第3主日は、洗礼者ヨハネを登場させて救い主への準備を促す朗読が選ばれます。今週選ばれた朗読箇所も、簡潔な表現ですが、洗礼者ヨハネが教えを宣べる場面です。この朗読箇所はわたしたちに対するしるしです。わたしたちはしるしを見て、何を考え、どう行動するかを決めなければなりません。

今、「今週の朗読はしるし」と言いましたが、洗礼者ヨハネの活動だけを見ていると、しるし全体を拾うことができず、見落とすことになります。朗読全体から、しるしの意味しているものを考えてみましょう。

「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」(3・2)洗礼者ヨハネに、神の言葉が降ったことは、「しるし」ではありますが「しるしの一部」です。どのような背景の中で、洗礼者ヨハネに神の言葉が降ったのでしょうか。

そのことが、直前に述べられています。直前の箇所には、その当時の権力者たちの名前がずらりと並んでいます。ローマ皇帝、ユダヤ総督、ガリラヤ領主、また近隣地域の領主、大祭司など、言ってみれば当時のユダヤ社会を支配している人々が紹介され、その中で荒れ野にいる洗礼者ヨハネに神の言葉が降ったというのです。

何を意味しているのでしょうか。権力者、地上の支配者が何人もいたにもかかわらず、神の言葉が降ったのは彼らではなく、荒れ野にいる洗礼者ヨハネに降ったということです。なぜでしょうか。それは、神のご計画があったからです。

洗礼者ヨハネに降った神の言葉をもう一度思い出しましょう。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」(3・4-6)

この神の言葉を理解し、協力できる人は、この世の権力者ではなく、洗礼者ヨハネのような人です。力で人々を支配する者に、主の道を整えること、主の道をまっすぐにすることはできない。だから、神の言葉は権力者には降らず、洗礼者ヨハネに降ったのです。

神は、ご自分の計画を実行するために、適任者を選ぶのだと思います。ご自分の計画を確実に進めるために、場所と時間と人を慎重に選びます。神さまだって、計画が水の泡になるのは嫌いだからです。

イザヤの預言に、少し言葉を補いましょう。「谷を埋める」とは、「社会の底辺にある人々に希望の光を届ける」ことでしょう。「山と丘は低くされる」とは、名誉や金銭でおごり高ぶっている人に謙虚な心を取り戻させることでしょう。神の望む生き方をすべての人が生きるように、悔い改めの洗礼へと人々を招く。そのために神が選んだのは、権力者ではなくて洗礼者ヨハネでした。

さて最後に、今週の学びを得ましょう。わたしは、「しるしを見て、何を考えるか」ということを最初に投げかけました。今週神が示そうとするしるしを見て、わたしたちは何かの態度を取らなければなりません。

その答えは、「神の言葉はだれに降ったか」を思い出すことです。神の言葉は、権力を好む人にではなく、悔い改めて神の望む生き方に自分を合わせようと準備している人に降るのでした。ですから、わたしたちに求められているのは、神の言葉が自分に降るような生活を選ぶことです。

神の言葉が降るような生活。それは、やがて来られる救い主にすっかり向きを変える生き方です。イエス・キリストなしには物事が始まらない、そういう生き方です。朝、目が覚めた時にイエス・キリストなしに今日一日が始まらないと考えるなら、わずかでもいいから祈りをして一日を始めるはずです。

食事をしようというときに、イエス・キリストなしにこの食事は始まらないと考えるなら、食事の前に祈るはずです。こうして、イエス・キリストなしに物事は始まらないと考える人に、神の言葉が降るのです。

神の言葉は、洗礼者ヨハネに降りました。わたしたちもまた、神の言葉が降るような生活を心がけるなら、社会に対してしるしとなることができます。そしてわたしたちを見て、だれかが主の道を知り、その道を歩き出すのです。

皆さんは、「主の道を備えよ」という聖歌をご存じでしょう。できればこの聖歌を覚えて持ち帰り、日々心の中で歌い続けましょう。わたしにも、周りの多くの人にも、神の言葉が降り、神の子を喜び迎えることができるように、ミサの中で照らしを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
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