主日の福音12/11/04(No.617)
年間第31主日(マルコ12:28b-34)
隣人はいつも自分の目の前にいる
最近一人のシスターを上五島病院に見舞っています。浜串小教区では名前を言っても良いと思いますが、○○○○シスターです。足が弱くなって入院されたのかなぁと思っています。詳しいことは分かりません。
この前見舞いに行った時は、ちょうどリハビリの時間でした。戻るまで待とうかなぁと思ったのですが、看護士のかたが「リハビリ室は一階です。どうぞ」と言うので、リハビリ室に行ってご聖体を授けることにしました。皆さんは見たことがないかも知れませんが、病院服を着て、指示通りのリハビリをしていました。たくさん話をしたわけではないのですが、一言ひとことが、心にしみこんでくるようでした。
病人見舞いをしていると、心が洗われる時があります。シスターのお見舞いも、その一人です。本来なら、修道服を着て修道院で暮らしているはずなのに、今病院で、支給された服を着て、一緒に過ごしたりしないたくさんの知らない人と一緒に暮らしている。もうそれだけで、シスター偉いなぁと思うし、謙虚な気持ちになるのです。
わたしは病人訪問と、隣人愛について深く考えさせられました。まさに今日の福音朗読です。律法学者がイエスに尋ねます。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」(12・28)それに対してイエスは、次のように答えました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(12・30-31)
イエスの答えは、第一の掟と第二の掟として示されましたが、その答えを聞いた律法学者は、「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(12・32-33)と答えました。第一の掟と第二の掟をくっつけて理解したのです。そして、イエスは律法学者の返事は適切であると褒めました。
律法学者が答えたように、第一の掟と第二の掟は、くっつけて理解するのが適切な理解なのでしょう。つまり、神を愛するということと隣人を自分のように愛するということとは、いわば紙の表と裏のように、切り離せないものなのです。
病院に入院しているシスターがどんな過ごし方をしているか、わたしは見たわけではないのですが、隣人を自分のように愛する日々を過ごしているのだろうなぁと思っています。シスターと同じ部屋にいる人は、実際には知らない人です。けれども、シスターはその相部屋の人を、隣人として受け入れ、共に病気の苦しみを耐え、嬉しいことがあれば一緒に喜んであげ、修道院にいれば経験しないで済むような会話を耳にしたり態度を目にしたり、忍耐しなければならないことはそれはもうたくさんあって、それらを黙って、忍耐しておられるのではないかと思います。その姿は、「隣人を、自分のように愛しなさい」というイエスの招きに、全身全霊で答えようとするものだと感じました。
わたしが仮に入院することになれば、こうはいかないと思います。どうして相部屋に入院しなければならないのだと不平を言ったり、どうして周りの人のどうでもよいような会話を聞かなきゃならないんだとこぼしたり、生活上のいろんな制約を嘆いたり、とても隣人を自分のように愛するといったお手本にはなれないと思うのです。
シスターは違います。「ご聖体を授けに来たよ。お祈りして拝領しような」と言ったら喜んで、わたしが祈りを唱える箇所までシスターが唱えて祈ってくれました。聖体拝領のこの日をどんなに待っていたか。それはちょっとの間の訪問でも痛いほど分かります。「あー今日はご聖体を運んできてくれる日だったか」という人と、ご聖体を一日千秋の思いで待っている人は、それは一緒に過ごしている短い間だけでも分かります。
神さまを肉眼で見ることはできないわけですが、隣人を心から受け入れて愛する人は、隣人の向こうに、神さまを見ている人だと思います。入院生活という思い通りにいかない時間にも、相部屋になった隣人を愛せる人は、当然元気になってからも隣人を愛せる人でしょうし、病の中で隣人の向こうに神さまを見ることのできる人は、普段の生活ではなおさら、隣人を愛することで神を深く愛せる人なのではないでしょうか。
隣人を自分のように愛すること。そのチャンスは遠い場所で起こるのではありません。目の前で、自分のそばで起こります。隣人を愛することと神を愛することとは一体です。隣人を深く愛する人は、すでに神を深く愛しているのです。
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。わたしたちも、「あなたは神の国から遠くない」と言われたいものです。その近道は、生活の中にあります。
頭で考えるのではありません。生活の中で、実行して理解するものです。これが正解というものは無いと思いますが、「神の国から遠くない」という生活はあるはずです。その、「遠くない生活」「限りなく近い生活」を喜んで生きていくことができるように、導きを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(マルコ12:38-44)
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