主日の福音12/10/21(No.615)
年間第29主日(マルコ10:35-45)
報いとは関係なく、困難を受けて立つ

昨日から今日にかけて、長崎カトリック神学院では1日体験入学が計画され、浜串小教区からは6年生を1人鯛ノ浦港から送りました。同じ体験入学に、別の小教区から3人の6年生が参加していました。

わたしは自分の小教区の子供に、「よく見て、いっぱい学んできなさい。帰ってきたら感想文を書いてもらうから。原稿用紙100枚分ね」と言ったんです。いつもそうやってからかわれているので、うちの子供は「またまたぁ」という顔をしていましたが、そばにいた別の6年生は、顔が真っ青になりまして、「浜串教会の子供じゃなくてよかったぁ」と言っていました。どうやらわたしの冗談はセンスが悪いようです。

子供たちを乗せた船が鯛ノ浦港を離れてから、長崎カトリック神学院に、「鯛ノ浦港から4人送りました」と伝えますと、今年は五島からの参加者は浜串ともう一つの教会の、4人だけなのだと聞きました。世界宣教の日を今週迎えましたが、世界中に神のことばを伝えなければならないのに、五島から体験入学の生徒が4人しかいないというのは不安だなぁと思いました。

さて今週の福音朗読は、ヤコブとヨハネが自分たちの栄誉になるような約束を取り付けようとする場面から始まっています。今週の朗読の置かれた状況を確認すると、イエスは十二人の弟子を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し、その後に今日の出来事が続いています。

イエスは自分の身に起こる出来事をはっきりお話しになりました。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(10・33-34)

この時、イエスの死と復活の予告はすでに三度目になっていました。ですから、十二人の弟子たちは、これはもう苦難は避けられないということを理解していたはずです。師であるイエスが苦しんで死ぬことになれば、わたしたちにも影響が及ぶのは必至だとうすうす感じていたと思われます。

そんな中で、ヤコブとヨハネがイエスに約束を取り付けようとしているのです。想像を絶するような苦しみが避けられないのだったら、そのあとの栄誉ぐらいなければやってられない。そういう気持ちだったかも知れません。

しかも、イエスはご自身の苦しみと死のあとに、復活が用意されていることをはっきり言っています。弟子たちは、イエスの苦しみの後に来る輝かしい復活を、苦しみの報いととらえたのでしょう。後に続くわたしたちにも、苦しみのあとの報いを約束してもらおうではないか。だいたいこういったところがヤコブとヨハネの願いの根拠だったのでしょう。

2人の願いに、イエスはご自分の右に座る栄誉、左に座る栄誉を約束しませんでした。約束しなかったわけは2つあるでしょう。1つは、ご自分の復活の出来事は、苦しみの報いではないからです。もう1つは、苦しみは報いがなければ無意味なのではなくて、苦しみそのものに意味があることを知らせたかったからです。

それぞれ、考えてみましょう。まず、イエスは死んで、そののちに復活するお方です。どのような死に方をしたにせよ、イエスは復活するお方です。死に勝利して、永遠の命を持っておられることを宣言するお方だからです。ですからイエスの復活は、苦しんだことの報いではないのです。苦しみは、苦しみそのものに意味と価値を見いだす必要があります。

次に、弟子たちは報いがあるのは当然だと考えています。苦しんだだけで終わるというのは、損をしていると考えているのかも知れません。自分たちにも苦しみが及びそうな予感がしています。苦しんだだけで終わりなのだろうか。師匠であるイエスのために苦しみを受けるのだから、イエスからその報いを受けても悪くないではないか。そう考えての行動だったのかも知れません。

けれども、イエスは右と左の席を約束しませんでした。約束がなかったことで、苦しみは報いとは直接結びつかないのだということが分かってきました。イエスは問いかけます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(38節)苦しみを苦しみとして、そのまま受け入れることができるか。イエスは知りたかったのです。

ヤコブとヨハネは、「できます」と答えました。これはイエスが期待していた通りの返事ではありません。ヤコブとヨハネは、右と左の席という報いを約束してもらいたかったので、「できません」とは言えなかったのです。引くに引けなくて、「できます」と言ったと考えた方がよいでしょう。

それは例えて言えば、弟子をいっさい取ろうとしない先生に弟子入りしたくて、「どんなことでもやります」と言っているようなものです。その人は、弟子になれるという報いを当てにして、「どんなことでもやります」と言っているだけなのです。報いとは無関係に、どんなことでもやりますと答えているわけではないのです。

ヤコブとヨハネもそうでした。自分たちも何かしら栄誉を受ける当てがあれば、いくらでも苦しみを受け入れよう。報いのない苦しみは、考えられなかったのです。やはり、報いを横に置いて困難に立ち向かおうとしないのが、人間の正直な姿かも知れません。

今日は世界宣教の日に当たっていますが、報いを横に置いて、報いのことなどいっさい気にせず、宣教に目を向ける人になりたいと思います。わたしたちキリスト者がいるその場所が、宣教の場所です。報いを気にしないで、報われないことを恐れないで、困難に立ち向かう力と勇気を、イエスに願いたいと思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(マルコ10:46-52)
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