主日の福音12/09/23(No.611)
第主日(マルコ9:30-37)
イエスは人類を一人の子供として抱き上げた

先週、婦人会のミニバレーの練習のときに、日曜日の説教って、案外よく聞いているんだなぁというのがよく分かりました。大変失礼な話ですが、みなさんがどれくらい説教を聞いているのか、半信半疑だったのです。

ところが、火曜日の練習だったか、わたしの動きがだんだん緩慢になってきて、目の前に落ちようとしているボールを拾えなかったり、自分が拾いに行くべき時に人に拾いに行かせたりしていたら、「集中力がなくなってきたぞぉ」と味方からはっぱかけられました。

同じようなミスを続けていたところ、相手コートのお母さんたちからも「ほら神父さまは、もう集中力がないぞ〜」と冷やかされまして、説教はほとんどの人が最初から聞いているんだと、痛いほど分かりました。先週の出来事で、説教で話したことはいつか浜串の信者さんたちの中で実を結ぶのと思えるようになりました。

今週の福音朗読で、イエスは「いちばん偉い者」について、弟子たちが考えもしなかったことを取り上げます。弟子たちは、「だれがいちばん偉いか」と議論し合っていたのですが、きっと弟子たちが考えていたのは、力のあるなしとか、貢献したかしなかったかとか、イエスの質問に何回適切に答えたか、そんな優劣ばかり話題にしていたのでしょう。

そうした弟子たちの愚かな議論に、イエスは釘を刺します。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(9・35)さらに驚いたことに、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(9・37)

おそらく子供を連れた家族とかが、イエスの近くにいたのでしょう。ですが弟子たちの目には、目の前の子供たちなどまったく気付かなかったのかもしれません。出世、社会的地位、周りからの評価。そうしたことで頭はいっぱいで、イエスが見ているものが見えていなかったのでしょう。

イエスははっきりと、ご自分が見ているものを指し示します。それは子供たち、つまり無力で助けを必要としている者たちです。そして一人の子供を抱き上げることで、無力で助けを必要としている者を最優先に考えて動く者が、イエスに評価される者、イエスをお遣わしになった父なる神に評価されるのだと諭したのです。

わたしは、イエスが子供を抱き上げる姿には、隠された意味があると思います。子供に代表される無力で助けを必要としている者とは、人類全体を言い表していると思うのです。

血管が1cm詰まっただけでその後の人生がすっかり変わってしまう。ほんの一瞬よそ見をしただけで、自分の身を守ることができない。そんなあわれな人間を、イエスは抱き上げるために人となり、この世界においでになりました。罪な生活を断ち切ることができない、自分の罪も、他人の罪もゆるして清めることができない弱い人間を抱き上げる姿を、一人の子供を通して示しているのではないでしょうか。

イエスは、人類という一人の子供を抱き上げるために、この世においでになりました。その生涯は、「すべての人の後になり、すべての人に仕える」生き方でした。後をついて行きやすい人の後だけたどったのではありません。すべての人の後になりました。仕えやすい人にだけ仕えたのではありません。なぜこんな人間に仕えなければならないのかと理解に苦しむような人にも、イエスは仕えたのです。

イエスの考える偉大さが、ここに詰め込まれています。上に立つ偉大さは、限られた人にしか手本になりません。しかし仕えることで発揮される偉大さは、すべての人に道が開かれています。イエスは、すべての人の模範となるために、仕える道を通して偉大な道を示そうとしたのです。

9月の第4日曜日は、日本の教会では「世界難民移住移動者の日」に当てられています。自分の国を追われた人、理由があって自分の国を離れた人、さまざまな理由で滞在している人がいます。

このような人たちに手を差し伸べることは、弱く助けを必要としている人に仕えることになります。わたしたちが今日おささげした献金は、広く日本に滞在している難民移住移動者のために用いられます。これは、わたしたちにできることの一つです。

ほかにも、わたしたちにできること、わたしたちが考えておくことがまだあると思います。弟子たちが考えていたような、「だれがいちばん偉いだろうか」であくせくするのではなく、どんな場所でも、一人の子供、弱く助けを必要としている人を優先して考える活動を考えましょう。個人として、評議会として、小教区として、いろんな立場で、イエスが取った姿に倣っているだろうか。ときおり振り返る必要があると思います。

最後に、来月10月からの大きな動きについてお知らせしたいと思います。教皇ベネディクト16世は、昨年10月17日に、「信仰の門」という教令を発布して、今年10月11日から来年11月24日までを「信仰年」と定め、信仰を深める取り組みをし、信仰の力のすばらしさをすべての信者に理解してもらうよう呼びかけておられます。よきおとずれの10月号にも、信仰年について大司教さまが詳しく説明しておられます。

わたしたちはこれからの一年間、教えをもう一度学び直し、理解を深めるようにしましょう。カトリックの信仰を持っている信者はこんなにすばらしい生き方ができると、信仰年の間に証しができるカトリック信者に成長していきましょう。その中でも特に「すべての人の後になり、すべての人に仕える」生き方は、カトリック信者が何をいちばん尊い生き方と信じているか、人々に示す確かな方法になると思います。
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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(マルコ9:38-43,45,47-48)
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