主日の福音12/09/16(No.610)
年間第24主日(マルコ8:27-35)
命を失って、それを救う

今週、敬老者のためにミサをささげています。わたしは、歳を重ねることの重みを考えるようになりました。去年はここまでできていたということが、今年は同じところまでできなくなったりします。

たとえば、今婦人会といっしょにミニバレーの練習を、司祭団の間ではソフトボールの練習をしていますが、バッティング練習が回ってきて、去年は外野の守備ギリギリのところまでボールを飛ばせたのに、今年は何度試しても少し手前で外野の守備の司祭に取られてしまいます。

ミニバレーで言うと、去年は練習の最後までしっかり練習できていたのが、今年は練習の終わり頃になると気持ちが途切れてしまって、「あー、そろそろ終わらないかなぁ」と思うことがあります。去年と今年、1年しか違わないのに、やはり何かが少し違ってきています。

今日敬老のお祝いを受ける75歳以上の方も、多かれ少なかれ、今年は去年に比べて少し違いが出て来たなぁということがあるのではないでしょうか。そして、そういう少し荷が重くなった負担を、今もこうして正面から担っておられます。本当に、立派だなぁと思います。

今週の福音は、ちょうど敬老者の姿に重なります。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(8・34-35)

自分を捨てて生きるとか、自分の十字架を背負って生きるとか、好んで選ぶ道ではないはずですが、今日お祝いを受ける敬老者の方々は、思い通りに生きることを少し控え、思い通りにならない頭と体を日々担ってこられました。それは、敬老者の立場で、イエスに従う生き方だと思います。考えようによっては十年前二十年前よりも、もっとイエスの望みに従って生きることができるようになったのかもしれません。

思い通りに生きることを少し控えて自分を捨てて生きている姿、思い通りにならない日々を自分の十字架として担っている姿は、ペトロの信仰を表す場面とも重なります。ペトロは、「あなたは、メシアです。」(8・29)とイエスに答えました。

この信仰告白は、イエスに、「あなたは他の誰でもない、ただ一人の救い主です」と言い表しているのですが、敬老者の皆さんも、生き方で「イエスさま、あなたは他の誰でもない、ただ一人の救い主です」と言っておられると思います。他に欲張って求めるものはなくなり、ただイエスの救いだけを必要としている姿。敬老者の皆さんは生き方で、ペトロの信仰を言い表しているのだと思います。

今日のこのミサには、敬老者を祝う人々も集まっています。子供たち、敬老者を家族に持っておられる方、教会家族で敬老者のお祝いのために集まっています。敬老者を祝うわたしたちも、敬老者の生きたお手本から自分の振る舞いを見つめ直したいと思います。

イエスはご自分の死と復活を予告しました。自分に死んで、新しい命に生きることが、救いのためにどうしても必要だと考えておられます。イエスが必要だと考えておられることに、わたしたちが口を挟むことがどうしてできるでしょうか。

それなのに、つい口を挟んでしまうのです。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」(8・32)イエスには、ペトロの思い通りのイエスであって欲しい。ペトロの勇み足がここに現れています。「あなたは、メシアです」と、気力も体力も充実している時に表明した信仰は、それ自体は素晴らしかったのですが、歳を重ねた信仰、火で精錬された信仰にはたどり着いていなかったのです。

イエスは、思い通りにならない道、すなわち十字架の道を通って、救いを完成しました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(8・35)わたしたちも、思い通りにならない道を通って初めて、意味深い信仰告白ができるようになるのだと思います。

敬老者が生き方で示す信仰に謙虚に耳を傾け、共にイエスに従って歩む道を見つめ直しましょう。思い通りにならないことを数多く通り抜けた先に、輝く信仰者の生き方があります。
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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(マルコ9:30-37)
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