主日の福音12/09/02(No.608)
年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
あなたの心の中に糾明すべき罪がある

休暇をいただきました。月曜から長崎に行く予定をしていましたが、日曜日のミサ後から天気予報を見ていると、どうも月曜日に船は出そうにありませんでしたので、日曜日の夕方5時の五島産業汽船を申し込んで、半日早く五島を脱出しました。

結果的にその判断は正解だったのですが、あとで考えたら日曜日の夜には評議会が入っていて、議長さんにはよろしくお願いしますと連絡はしたのですが、悪いことしたなぁと思っています。

さてサッカーのロスタイムのようなおまけの休みが与えたれて、学生の人たちはさぞ喜んでいることでしょう。わたしが記憶している限り、小学生時代に9月3日が始業式になったことなど聞いたことがありません。くやしいです。

さてぎりぎり夏休みの最後の週で、堅信組に言い聞かせる七つの秘跡の話は間に合いました。今週の福音朗読から、「ゆるしの秘跡」について、呼びかけをしたいと思います。ゆるしの秘跡は、二つの柱があります。罪を犯した人は洗礼以後に犯した罪について、問いただし(糾明)・悔やみ(痛悔)・司祭に告白し・償いを果たします。司祭は罪を犯した人にキリストの名によって罪のゆるしを与え、償いを言い渡します。

どのような罪を告白しなければならないかというと、洗礼以後、まだ告白していないすべての大罪を告白しなければなりません。また小罪を告白することも、教会から強く勧められています。小罪を告白することで、わたしたちの正しい良心を養い育て、悪い傾きと戦う助けになるからです。

そこで、罪について少し考える必要があります。罪と言うと、何かをしなかったとか迷惑をかけたとか、結果だけ考えるのは堅信組の中学生の糾明、告白としては不十分だと思います。告白する人が「日曜日のミサに行きませんでした。2回」と言ったとしましょう。中にはそれだけしか告白のときに言わない人もいます。そんな時、わたしは心の中では「よく考えてほしいなぁ」と思っています。

福音朗読をもう一度読み返しましょう。当時のユダヤ人たちは、昔の人の言い伝えを守り、外出先から帰ると念入りに手洗いをして食事をしていました。外出先が外国人のいる場所、違う宗教を信じている人の場所だと、宗教的に汚れると思っていたからです。

けれども、イエスと弟子たちはその習慣をそれほど気にしていませんでした。ファリサイ派の人々と律法学者たちにとって、手を洗わないイエスの弟子たちの態度は、汚れをできるだけ遠ざけようと努力していた自分たちを侮辱しているように見えたでしょう。

イエスは、きっぱりとご自分の考えを伝えます。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(7・14-15)ファリサイ派の人々と律法学者たちは、外を一生懸命清めようとしていましたが、彼らの心の中は、手を洗わないイエスの弟子たちへの怒りと憎しみで一杯だったのです。イエスにとって、外の汚れを洗ったか洗わなかったかよりも、宗教指導者の心の中の、怒りや憎しみこそが罪だったのです。

先週中田神父は浜串と福見で平日まったくミサをしませんでした。そのことだけを取り上げたら、重大な罪を犯しています。けれども月曜日から水曜日は長崎で、木曜から土曜日は鯛ノ浦で、ミサをささげました。わたしは朝の6時に、浜串と鯛ノ浦に同時にいることはできません。浜串と福見でミサをしなかったし、できませんでしたが、理由まで考えれば理解してもらえると思います。

堅信組の皆さんも、ゆるしの秘跡を受ける前には十分な糾明をするでしょう。ミサに行かなかった日もあるでしょう。本当に、どうにもならない場合は、わたしは罪にならないと思います。行けば行けるのに、行きませんでした。それは、心の中で罪を犯していると思います。行きたくないという思いを優先したからです。

イエスの言葉はゆるしの秘跡のしかたをもう一度考えさせます。「人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」ミサに行かなかったのは結果に過ぎません。なぜ行けなかったのかをよく糾明して司祭に告白する必要があります。起き上がれないくらい頭が痛くて行けなかったのか、起きなさいと親から言われたのに、聞こえないふりをして行かなかったのか。事情はまったく違います。

中には病院に入っていて日曜日のミサに行けませんでしたと言う人がいますが、それは結果だけを気にしている人です。病院にいれば行けるはずがないのですから、そんなのは罪ではありません。

「人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」堅信組の中学生は、保護者といっしょに11月の堅信式の前にゆるしの秘跡を受けます。お祈りをしませんでした3回、ミサに行きませんでした2回というような告白はもううんざり。不合格です。

イエスは「人間の心から、悪い思いが出て来る」とも言っています。思い、言葉、行い、怠りについて、悪い思いがその時になかったか、よく糾明をしてほしいと思います。決して、教会に行かなかったことだけが罪なのではありません。生活全体を見つめて、心の中で、悪い思いを持ったときのことを糾明・痛悔・告白してほしいと思います。

最後に、司祭は、だれがどんな罪を言ったのか決して話しません。だいたい分かっていますが、決して話しません。なぜなら、司祭はイエス・キリストの名によって奉仕をしている僕です。一人ひとりの罪について何かが言えるのはキリストお一人です。僕である司祭には何かを言う権限はありません。だから、司祭には完全な秘密を守るように義務づけられています。イエス・キリストと向き合って、立派な告白ができるように、ミサの中で願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マルコ7:31-37)
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