主日の福音12/08/12(No.604)
年間第19主日(ヨハネ6:41-51)
あなたの命は神から来ている

先週行われたドッヂボール大会の結果は、優勝・準優勝・第3位まで、去年と同じ教会でした。先週冗談で「優勝浜串教会」と印刷したと言いましたが、去年と同じ教会名で印刷しておけば、手書きの部分がなくてきれいに出来上がったのになぁと思いました。

皆さんは浜串教会チームの成績が気になるでしょうからいちおうお知らせしておきます。全体で14チームが出場しまして、予選を2つのパート、AパートとBパートで繰り広げました。そして浜串チームは、Aパートの3位に入りました。

ただ、最終的にすべての順位を確定する試合、全体5位になるか6位になるかの試合に、残念ながら負けてしまいました。ですから最終順位は○○位ということになります。もうこれ以上は説明要らないと思います。

さて今週の福音からは、洗礼の秘跡について堅信組に語り掛けたいと思います。ユダヤ人たちがイエスについてつぶやき始めます。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」(6・42)これは、イエスがどこからやって来たのかについてのつぶやきです。

ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」(6・41)と言ったのに、それを横に置いてぶつぶつつぶやいています。中田神父に当てはめて考えると、中田神父は叙階の秘跡によって司祭にしてもらいました。だから、神さまからやって来たものがわたしの中にはあります。

けれども、生まれたのは浜串から車で30分くらいしか離れていない鯛ノ浦で生まれました。鯛ノ浦のことを知っている人から見れば、父親母親がだれで、お金持ちか貧乏か、小さい頃はどんな子供だったか、いろんなことを知っているわけです。

イエスは、天からやって来た部分が大事で、そこに目を向けて自分を信じて欲しい、理解して欲しいと願っています。けれども、つぶやいているユダヤ人たちは、「天から降って来た」とイエスが話すのを一切無視してしまいました。

わたしたち皆に当てはめてみましょう。わたしたちには、天からやって来た部分と、この世に属している部分とがあります。わたしはどこからやって来たかと考える時、父親母親の名前を言える人もいるでしょう。けれども、父親母親が全く分からない人もいます。この世のつながりは、絶対的ではないのです。

ですが、もう一つのこと、わたしたちには天からやって来た部分があります。わたしたちの命は、神から与えられたものだからです。堅信組の皆さんに命を与えてくれたのは、天の父です。そして、命が天からやって来たことをすべての人に証明するために、洗礼を受けています。洗礼の恵みは、人を神の子どもとし、原罪とすべての自罪をゆるし、成聖の恩恵を与え、神の家族としますが、これらはすべて、あなたが天からやって来た部分を持っている、そこから出てくる恵みなのです。

たとえ父親母親がはっきり分かっていても、神の子どもと呼べるわけではありません。天からやって来た部分があるから、すべての人は神の子、神の命をいただいているのです。洗礼の秘跡は、この天からやって来た部分を人々に証明する秘跡と言えます。

すべての人に、天からやって来た部分があります。ですから、洗礼を受けているすべての人、とくに堅信の秘跡を受けようとしている堅信組は、出会う人に、「あなたにも、天からやって来ている部分がある」と話し掛けて欲しいのです。天からやって来ている部分に相手が気付いたら、洗礼の恵みに導いてあげることができます。

今週の朗読でイエスはユダヤ人にもう1つの語り掛けをしました。最初は、「イエスがどこからやって来たか」についてでしたが、今度は「イエスは誰なのか」に目を向けさせようとしています。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(6・51)

わたしたちには、天からやって来た部分があると言いました。けれどもすべての人がそれを理解し、受け入れてくれるわけではありません。天からやって来た部分があると理解してくれたとしても、洗礼を受けてくれるかどうかは分かりません。

洗礼は、天からやって来た部分があることを公に言い表すことですから、信じることが必要になります。そこで、「イエスが誰であるか」をあわせて伝えることができれば、もっと多くの人に、洗礼の恵みに触れてもらうことができるはずです。

「イエスが誰であるか」いろんな説明ができると思いますが、今週の朗読から分かることは、イエスはすべての人の中にある天からやって来た部分を生かすパンであるということです。天からやって来た部分を生かすパンであるイエスを信じること。それが、人を洗礼に導く大きなきっかけになります。

わたしたちには皆、天からやって来た部分があります。洗礼を受けた人は、それを人々の前で公に言い表している人です。七つの秘跡の恵みは、洗礼の恵みを受けなければ先に進めません。豊かな恵みに養われる入口に、1人でも多くの人を導きましょう。そのための勇気と力を、このミサの中で願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
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