主日の福音12/08/05(No.603)
年間第18主日(ヨハネ6:24-35)
聖霊のたまものがイエスを信じさせてくれる

曽根教会の体の大きな神父さま。7月下旬に脳出血を発症してヘリコプターで大村に運ばれ、緊急手術を受けました。聞く所によると右半身に麻痺が出て、言語障害もあるそうです。心配しておりますが、何もない人が脳出血を起こすはずはないのですから、ふだんの生活に問題があったのだと思いますし、わたし自身も気をつけようと思っています。

いきなり主任司祭が1人いなくなったわけですから、大なり小なりわたしたちにも負担が回ってきます。ある先輩は、堅信組の中学生の準備を、いなくなった司祭の代わりにしてあげないといけないなぁと言っておりました。

曽根から遠いわたしにも、神父さまが倒れたのでドッヂボール大会の賞状を代わりに作ってくれと大会を主催する神父さまから頼まれました。わたしはただで引き受けるのはつまらないと思ったので、主催する神父さまをちょっとからかってやろうと思いました。

賞状を印刷したあと、大曽の神父さまに電話しまして、「賞状は印刷したけど、『優勝 浜串教会』ともう印刷しましたからね」と言おうと喉まで出かかったのですが、生真面目な神父さまなのでカンカンに怒るだろうなぁと思ってそれはやめときました。とにかく、ちょっとの体調不良は心配しますが、明らかな病気は心配するだけでなく何が原因ですかとそちらに考えが向かいます。この際司祭は生活を見直すべきです。

今週の福音朗読から堅信組の中学生に伝えたいことは、堅信の秘跡で受ける聖霊の七つのたまものです。1学期の終わりに堅信の秘跡とは何かをお話ししましたが、堅信の秘跡は聖霊の七つのたまものを受堅者に注ぎます。七つのたまものとは、「知恵・理解・判断・勇気・神を知る恵み・神を愛する恵み・神を敬う心」です。

今週の福音朗読には文章に工夫がなされています。それは、「群衆とイエスとが同じことばを繰り返しながら話は進むのに、群衆はちっともイエスの理解が深まらない」そういう様子が描かれているのです。もとのギリシャ語では、はっきり言葉のキャッチボールが見られます。

例として、「捜す」(1)群衆は満腹したからイエスを「捜す」。だがイエスはしるしの意味に気付いて「捜し」てほしい。「神の業」(2)群衆は自分たちで「神の業」をおこなうことができると考えているが、イエスは「神の業」を行うには神がお遣わしになったイエスを信じる以外にないと強調する。「信じる」(3)イエスを「信じる」ことは、イエスを救い主と信じること。だが群衆はイエスの言っている言葉を「信じる」だけで救い主という信仰に深まらない。

全部で8回言葉のキャッチボールが繰り返されたのに、心のキャッチボールはまったく深まりませんでした。言葉だけを投げかけたり投げ返したりして、思いは届かなかったのです。

何が足りなかったのでしょうか。たまものが、足りなかったのだと思います。イエスのことを、神から遣わされた救い主と信じるためには、神が聖霊を通して注いでくださる賜物が必要なのです。

そのたまものこそ、堅信の秘跡で受ける聖霊の七つのたまものです。群衆はイエスと言葉のキャッチボールをするあいだに、イエスの言葉に「知恵」があると「判断」し、「理解」します。イエスの言葉を心を開いて受け入れるには「勇気」が必要です。

イエスの知恵ある言葉が、イエスがだれであるかに群衆を導きます。そしてはっきりとイエスを信じるために、「神を知り、神を愛し、神を敬う」賜物が必要になります。これら聖霊の七つのたまものが、堅信を受ける人に注がれて、イエスとの言葉のキャッチボールを通して、イエスをより深く信じ、イエスに従って生きる人になる力を注いでくれるのです。

もう一度、イエスと言葉のキャッチボールをする群衆を思い出しましょう。イエスが神から遣わされた救い主だと理解して信じるための言葉が繰り返し使われても、群衆はイエスを救い主と信じることができません。それは、今の時代でも同じです。

考えてみましょう。イエスが人間の救いのために十字架にはりつけにされて命をささげ、復活しました。聖書を読んだことのある人はみな、文字では知ることができます。けれども、聖書を読んだすべての人がイエスを信じ、礼拝するわけではありません。わたしたちはほぼ確実に日曜日に集まり、約1時間の礼拝をささげていますが、それは、聖霊のたまものが、イエスをより深く知り、愛し、敬うように促しているからなのです。

イエスとの言葉のキャッチボールは、今の時代にも交わされています。イエスが直接キャッチボールの相手でなくても、ミサに行くように促す両親との言葉のキャッチボール、教会の行事や、教会学校、家庭で祈りをするようにと言う家族との言葉のキャッチボールなど、言葉だけやり取りする人はイエスに近づくことはできません。言い訳したり、反抗したりして、イエスのもとに行こうとしないでしょう。

けれども、キャッチボールをするあいだに、聖霊のたまものが言葉の向こうにある大切なものを理解させるなら、イエスのところに向かう力をもらいます。聖霊のたまものは、イエスをこれからも救い主と信じてイエスに近づくための力を与えてくれるのです。

堅信組の皆さん、言葉のキャッチボールだけで終わらないようにしましょう。祈りとかミサとか、言葉だけやり取りしていたらイエスから遠く離れてしまいます。祈りやミサが、救い主に近づく確かな道なのです。堅信をすでに受けた人は、そのことを態度で教えてくれています。堅信の秘跡で受ける七つのたまものが、よりイエスを知り、愛し、敬う力を与えてくれるように、このミサの中で願いましょう。
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(ヨハネ6:41-51)
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