主日の福音12/07/22(No.601)
年間第16主日(マルコ6:30-34)
神の望みに答えるために、休む

「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」(6・31)。イエスが弟子たちにねぎらいの言葉をかけています。弟子たちは初めてイエスに派遣されて宣教活動に出かけました。緊張の連続だったことでしょう。そしてイエスのもとに帰り、報告をすると、イエスは「しばらく休みなさい」とねぎらってくださいました。イエスが弟子たちにうながした休みを、今週は考えることにしましょう。

わたしは、イエスと弟子たちのあいだでの「休み」というとき、「永遠の安息」という意味と、「つかの間の安息」という意味の両方を考えます。イエスは、そのどちらも与えることができるお方です。しかしここでは、「つかの間の休息」を意味しているのだと思います。「しばらく休みなさい」と、「しばらく」という言葉がくっついているからです。

「つかの間の休息」ですが、大切な休息です。それは、休むことで本来の自分を取り戻し、次によい働きをすることに繋がります。

哲学を習っていた時代に、教えていた先生がレクレーションの意味について話してくださいました。カタカナでレクレーションと書いても特別な意味はありませんが、英単語のrecreationはラテン語のre-creatioの意味で、「再び創造する」「本来の自分を再び取り戻す」という意味があると教えてくださいました。

イエスが弟子たちにうながした「休み」が、この「再び本来の自分を取り戻す」ことに繋がる「休み」だったのだと思います。ところでこの「再び本来の自分を取り戻す」という様子は、みなさんが頭で考えていることと同じでしょうか。もしかしたら、違うかもしれません。

「本来の自分を取り戻す」と言いましたが、みなさんが考える「本来の自分」とはどんな姿でしょうか。たとえば土曜日日曜日の自分なのか、月曜日から金曜日の自分が本来の自分なのでしょうか。また、会社にいるときの自分が本来の自分なのか、家庭や自分の住む家にいるときの自分が本来の自分なのでしょうか。いろいろ考えると、「本来の自分」とは何を表すのか、人によって少しずつ違いがあるかも知れません。

イエスが、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と仰って弟子たちに本来の自分を取り戻させようとしたとき、イエスが考えていた姿はどんな姿だったのでしょう。イエスが与えた指示のなかに、考えるヒントがあると思います。

まず「あなたがただけで」とあります。弟子たちがつながりを持っている人はいろいろいたかも知れませんが、イエスに派遣された者たちだけで休むように指示しています。「人里離れた所へ行って」というのは、神の前に自分を置いてという意味に取るとよいでしょう。人に疲れただろうから、人を避けなさいという意味ではありません。神とじっくり向き合うための時間が、イエスの与えようとする休息です。最後に「しばらくの間」です。弟子たちはイエスに派遣されている者です。イエスが新たに派遣するそのときまで、派遣に備えるための充電です。

こうしてみると、イエスが弟子たちに取らせようとしている休み、「本来の自分を取り戻す休み」は、神の前に自分を置いて、神とじっくり向き合うことで与えられるもののようです。わたしたちが、「本来の自分を取り戻す場所」「本来の自分を取り戻す方法」として考えていたこととは、ずいぶん違っていたかもしれません。

けれども、イエスが弟子たちに与えようとしている休みは、実はわたしたちに必要な休みでもあると思います。わたしたちは神に創られ、神に生かされて今生きています。わたしたちが本当の意味で充実した生活をするためには、神の望みにかなった生き方をすることがどうしても必要です。その、神の望みにかなった生き方を取り戻すために、神の前に自分を置き、神とじっくり向き合う。その時間が必要なのです。

それは家庭祭壇があるなら家庭祭壇の前での祈りとか、静かな時に教会に来て、特別何かを祈らなくてもいいから、しばらくのあいだ自分を教会の中に置くこと。そうすることで、わたしたちは本来の自分、神に生かされ、神に創られたことを感謝して生きる生活を取り戻すことができるのです。

金曜日、子供が3人司祭館にやって来て、シスターはいないかとずいぶん粘られました。シスターも休憩したいのになぁと思ったものですから、「神父さまが見張りをするから、海に泳ぎに行かないか?」と誘ったのです。すると子供たちはシスターを引っ張り出すことをあきらめ、一緒に泳ぎに行くと言い出しました。

泳いでいる子供たちの見張りをしながら、わたしはひさしぶりに何か違った休息を楽しんでいると感じました。うまく言えませんが、自分のしたいことをして休むのではなく、わたしが神に感謝して生きるために、子供たちの見張りをしたことが休みになったのです。イエスに次に派遣されていくまでの時間を、子供たちを見張ることで充電にあてることができました。

わたしたちがイエスに派遣されている場所や形はさまざまです。派遣の呼びかけによりよい形で答えるために、休息は必要です。神に創られたわたしたち、神に生かされているわたしたちが、今日という日を使って神の望みに答える。そのために必要な充電を神に求めましょう。神が招いてくださる場所で充電を完了して、ためた電気で神さまのためによい働きができるよう、ミサのなかで願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(ヨハネ6:1-15)
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