主日の福音12/07/15(No.600)
年間第15主日(マルコ6:7-13)
何も持たないあなたをイエスが支える
7月3日の霊名聖トマスのお祝いをしていただきましたが、巡回教会の福見教会からもらったランニングウェアの背中に面白い文字がプリントしてありました。「この夏走った距離は裏切らない」ですって。面白いでしょ。霊名の祝日以降、昨日までで58キロ走っていますが、結果に結びつけばいいなぁと思っています。
みなさんの中には、わたしが走っている姿を見て、「ぜんぜん走ってないじゃないか」と疑う人もいるかも知れません。確かに、トボトボ足を出しているといった感じですが、先は長いですので、温かく見守ってください。
これは来年1月末の司祭マラソン大会に向けていろいろ調整しているのものですから、いきなり夏から全力で走るわけにはいかないのです。今の速さは、最後まで走っても息が上がらないことを目安にしています。まだ1キロ8分くらいです。
もちろん7分で走ることは可能ですが、それだと最後のほうは息が上がってしまい、口ではぁはぁ息をしてしまうのです。そうではなく、最後まで鼻で呼吸できる速さ、それを気をつけています。まぁしだいに力が付いてきたら、ペースも上げるでしょうし、後浜串までの坂道も練習に入れていきたいと思っています。
もしみなさんがやる気があれば、わたしが賞品を準備するので、浜串地区内で健康マラソン大会をしても構いません。一般10キロの部、小学生3キロの部、歩け歩けの部、それから、20分なら20分とタイムを申告して、申告したタイムにいちばん近い人が賞品をもらう組とか、いろんな参加できる形を用意したら、楽しめるのではないでしょうか。
今週の福音朗読はイエスが十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わす様子です。弟子たちが遣わされていく時の特徴は、とにかく「何も持たない」ということでした。
何も持たずに遣わされていく弟子たちを想像してみました。弟子たちは、きっと不安だっただろうなぁと思います。「パンを持たない」というのは、今日食べることができるか分からないまま遣わされたということです。日本の諺では「腹が減っては戦はできない」と言われ、力を出そうという前に食べ物に不足していることは良い状態とは思えません。
また、「袋も持たないように」とあるのは、お布施をしてもらうための袋を準備するなということです。日本のお坊さんが、修行のために町の中で袋をぶら下げて祈っているのを見たことがあります。なかには祈っているお坊さんの袋に、お金を入れて立ち去る人もいました。そうしたお布施は、修行しているお坊さんをきっと元気にしてくれるでしょう。ところが、イエスはご自分の弟子たちに袋を持たせませんでした。
「帯の中に金も持たず」とあるのは、もしものためのお金さえも、持ち回らないようにという指示です。ここまで「何も持たないように」と命じられると、「いったいこれで、何ができるというのですか」と言いたくなるかも知れません。
イエスさまは、当時の弟子たちには何も持たないようにと命じて二人ずつ組にして遣わしましたが、同じことを今の時代にも要求するのだろうかと考えてみました。わたしにも、同じことを要求しているのでしょうか。
わたしは、イエスは今も、弟子たちに同じ要求をしながら遣わすのだろうなぁと考えました。たとえば、日曜日の説教をするのに、説教の準備として少し使った参考図書や事典を説教台に持ち込んで並べたら、皆さんは驚いて身構えてしまうことでしょう。
たとえ、準備のときにいろんな資料を使っていたとしても、いざ説教台に遣わされて立っている時は、参考図書や事典で勝負するわけではありません。わたしの声で、わたしの中でかみ砕いて消化したもので、語りかけなければなりません。
最近よく走り込みをしているのですが、中田神父だと明らかに分かる何かを身につけて走ることは不可能ではないと思います。けれども、何も持たないで走ることは、それだけの意味があると思うのです。
本当に何も持たずに走ると、道の途中で出会う人と一対一で出会うことになります。相手がわたしと分からずに通り過ぎることも考えられます。それでも、「わたしをだれだと心得る。畏れ多くも」と宣伝しないで、ありのままの姿で、わたしだと分かってもらうことが、とても大切だと思います。
イエスさまは、何も持たせずに遣わす代わりに、汚れた霊に対する権能を授けています。霊に対する権能、それは、霊魂のお世話ができる権能ではないでしょうか。「持ち物は何もなくても、霊魂をお世話する権能があるから、あなたは十分に働くことができる。わたししか授けることのできない権能を与えているから、あなたはその部分でお世話しなさい。」イエスはそう仰っているのだと思います。
何も持たないでイエスに遣わされるということは、身を守るものも、自分が何者であるか証明するものも、理解されない時に言い訳をするものも、何もないということです。ただあるのは、イエスが授けてくださる権能、霊に対する権能だけです。あとはすべてをイエスに頼って働きます。
何ものにも頼らないで、イエスにだけ頼っている姿、だれも身構えさせないありのままの姿で人と向き合うことが、遣わされる弟子に期待されています。司祭・修道者に限らず、信徒の皆さんも、二人一組で証しする生活に遣わされます。結婚生活であるとか、地区評議会であるとか、クルシリオとか、他のいろんな使徒的活動です。
どうぞその中で、持ち物ではなく、手にしている資格でもなく、ありのままでイエスに信頼して生きていることを証ししましょう。イエスはそこでも、霊魂に働く権能で支えてくださいます。
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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(マルコ6:30-34)
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